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(4)議論などしてはならない

 「スユノモのメンバーは議論をしていなかった」と言う印象を受けました。あちこちで勉強をしたり、談笑をしたりしていましたが激論を交わしたり論争をしたりしているような雰囲気は感じられませんでした。
 スユノモにいた期間はごくわずかであるし、いわば客人ですから、○○ということはスユノモにはなかった、という言い方はほとんど想像の域を超えない報告になってしまうのですが、論理的に考えると、確かに議論をしていないのです。
 高美淑さんにはお会いできていないのですが、この方がスユノモのルール(「痕跡を残すな」など)が守れていないとき雷を落とすらしいですが、それは議論ではないわけです。勉強をしている共同体なのだから、さぞかしまじめに議論をし厳格に共同体の方針を決めているだろうとおもうのですが、どうもそういう感じではないのです。高美淑さんは書いています。

一般に共同体といえば理念と世界観を共有するまじめな集団であると考える。しかしながら厳格さとまじめさは共同体の致命的な弱点である。そういう共同体は内部的には位階が作動するようになり、外部に対しては境界が鮮明で停滞するほかないからだ。どんな種類であろうと、どんな記憶をもっていようと私はコミューンが生きて動こうと思うなら「ユーモラス」でなければならないと思うのである。笑いこそが日常の祝祭を作り出す基礎であり、コミューンの原動力であるからだ。(「ノマディズムと知識人共同体のビジョン」『歩きながら問う』)

 そういえば、私たちが訪れて、報告などをしてときも、スユノモの人たちは話し合いの中で、よく笑っていました。
 運動団体などからスユノモはどう見られていたか、今政肇さん(スユノモのメンバーで、通訳をしてくれた方でした)はこう書いています。「運動圏の一部からは社会運動よりも仲間うちだけで楽しく生活しつつ知識を弄んでいる奴らと見られることがあったようである。」(「歩きながら問う」)と。
 ところがそういうスユノモが移住労働者の滞在・労働権闘争、障害者の移動権闘争、韓米FAT阻止闘争の運動に接続していく。普通、こうした「運動」に連なるときには「組織内」で議論を尽くして「決定」に至るものでしょう。ところがそういう運動への接続は「縁」なのだとコ・ビョングオン氏はいい、今までなぜやらなかったのかという今政氏の問いかけにイ・ジンギョン氏はコミューンの運営で手一杯で余裕がなかったから、と答えたといいます。
 つまり、誰かが提起して組織内議論をして、あるいは「運動すべきだ」という倫理観で、社会問題・政治問題にコミットする、という通常の進歩的・革新的組織のありようとはぜんぜん違うわけです。ですから、セマングム反干拓闘争などの闘争としてスユノモが取り組んだ、セマングム干潟からソウルまでの400キロを歩く「大長征」へのスユノモのメンバーの参加形態は、それぞれの自由だったわけです。そこには左翼組織が持っていた参加メンバーへの組織統制のもつ致命的欠陥を乗り越えようとする慎重な思考があったのです。そうした「運動」をしていてもスユノモは運動団体ではない、研究者の共同体だと今政さんは言います。
 日本のサークルや運動体では、サークル・同好会なのか、運動体なのか、という「議論」を倦むことなく「議論」して果てがなかったでしょう。ちょっと「運動」的なことを誰かが言ったりすると、サークルが好きな人が警戒して「運動体にしてはならない」と反発したり、サークルを「運動体」にしようと方針提起して、賛同者が多数になれば運動体にできると思って「理論闘争」に熱を上げたりする。そういうことをスユノモは慎重に回避してきたわけでしょう。
 そうしたスユノモのありようのなかに「決して議論をしてはならない」というドゥルーズの声が反響しているように思うのです。

 私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もよばない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体化している。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「君の話は面白くもなんともない」とは言えませんからね。「それは間違っている」と言うのなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。重要性がないのはさんざん言い古されたものだからにほかならない。
(中略)
そして哲学とは、厳密な意味で、議論とは何のかかわりももたないものなのです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものなのか、そして問題はどのようなかたちで提起されているのかを理解するだけでもいいかげん苦労させられているのですから、その問題を豊かなものにするだけでいいのです。問題の条件に変化をつけ、補足し、つなぎ合わせることが求められているのであって、けっして議論をしてはならないのです。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』P.217 P.233 河出書房新社 1992)

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戦後民主教育その可能性と不可能性 5 学校知の構造

5 学校知の構造

 上原専禄でなくてもよいし、1955年という時点における教育の言語として限定する必要もない。戦後教育の一つの普遍的認識として、上原の言葉を位置づけることができよう。

 日本の教師は現実の政治の問題、社会の問題ととりくみ、権力とたたかわなければならない。それと同時に教師は子どもを教えなければならない。子どもを育てなければならない。その子どもを教える教師は一方において、おとなとして現実の問題とたたかいながら、他方においては子どもを未来社会をにないうるような子どもにつくっていかなければならないのであります。私たちが現時点における問題を非常に厳しく具体的に考えるということと、その問題意識を子どもたちに直接ぶつけるということとは、別のことでなければならない。その点が教育のむずかしさであります。………学校教育についていえば、子どもがおとなになるまでは、子どもたちにいろいろの点で心配をさせたり、迷惑をかけたりしないという気持ちがたいせつではあるまいか。その気持ちにもとづいて行動していくならば、学校教育の中身のなかにアクチュアルな問題がなまのままもちこまれるということはないのではないか。それよりも、十年さき、二十年さき、三十年さきのことを考えて、そのような社会において子どもがりっぱに生きうる能力と見識と感情をもてるように、という考え方に立って教育していかなければならないのではないか。(「民主主義教育の世界史的自覚」)

 「現実のアクチュアルな世界」から〈子ども〉を隔離して〈教育空間〉のなかで将来のために「能力・見識・感情」を育てようとする戦後教育の回路が、ここには明確に示されている。〈子ども〉は教育的環境の中で育てられるべきであって、現実のアクチュアルな世界から保護されていなくてはならない。また、そうした生活世界から子どもたちを引き離すことが可能であるという前提がここにはある。教育基本法も公教育の中に現実のアクチュアルな問題を持ち込むことを禁止し、この現実を「教養」化して教育することを説く。「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」(第8条)
 人間が社会の中で生きていくときに、その生きることと知は分割してあるのだろうか。「教養」と「活動」とは一人の人間の生において分離しうるものなのだろうか。知と生の分割、言いかえれば、生き方とかかわらない知、生きることと独立に知が存在し、生きることとの対話を持たない自己完結的な知が、逆に、生きていることを抑圧し続ける。こういう知識主義、教養主義の転倒形態を公然と制度化したのが学校であるだろう。知がその生命の源泉としての具体的生の活動から切り離され、「教養」として普遍化せしめられたとき、学校が成立したと言ってもよいだろう。
 生と知の分割は、近代が伝統社会に加えた決定的一撃であった。農民にとって、農作業も農具の使い方も肥料の作り方も、それを知るということは、そのものと自分の生との直接的かかわりであり、そのものとのつき合いであった。決して、「モノについての知識」ではない。コピーされ、間接化された普遍性のある価値としての知識ではない。前近代の生産・生活から分離していない知を、たとえば「こつ」や「勘」としてとらえ、「このような知識・技術は、人格全体が濃密に接触しあう一種の血縁共同体とでもいうべきものの中で、生活と労働を共にしながら、親方、先輩を通じて身体と心の全体でもって伝えられていくほかないようなもの」と規定し、近代科学の登場は、こうした文化の伝わり方を変化させた、ととらえる大田尭などは、「科学を背景とした文化は見よう見まね、以心伝心によらなくても「わかちつたえ」ができるものである」(『教育を改革するとはどういうことか』1985)として、近代科学の客観的内容=「主観と偏見を削って、1人ひとりちがったものである人間を深いところで有無をいわさず結びつける内容」をわかちつたえることのできる普通教育の場としての学校を意義付けをする。
 戦後民主教育の今日的理論水準を示す、大田尭や堀尾輝久が、学校以前の文化を射程に入れて論じながらも、近代学校教育の問題点を「詰め込み」教育の危険としかとらええていないのは、知の生活世界からの隔離が、どんな転倒を生み出してきたのかに気づいていないからだ。「文化が科学を媒介として「わかち、つたえ」ができるようになったことと背中合わせに「詰め込み」という危機が成立した」と彼らが言う〈「詰め込み」という危機〉という部分に、われわれは〈生と知との分割の危機〉という言葉を入れよう。
 大田らの普遍教育への欲望は、確実に、「こつ」や「勘」としてとらえている前近代の知への一定の「みくびり」を含んでいる。普遍化、客観化しえない知であると。生活世界から分離されていない知であるからといって、知る喜びのために知る知識欲や大胆な仮説を立てて、自然現象に切り込んでいく倦むことのない実験精神、能動的組織的な観察がないのではないことは、われわれはレヴィ=ストロースの『野生の思考』で知ることができるはずだ。近代科学の客観性といったことの中でしか学校は位置づけることができないのだろう。「科学」は、今でも〈教育空間〉の中枢なのだ。
 知と生との分割を持ち込んだのは近代であり、これを制度として固定する装置が近代学校であった。生活世界から知を離陸させ、「真理」「自由」「科学」といった普遍的価値を啓蒙しようとした近代そのものが一つの〈教育空間〉を形成し、さらに、その内側に、普遍的価値を精選パッケージにして、教える専門家が〈子ども〉を教えるべくセットした学校という〈教育空間〉がある。生活から知を抽出分離し、生活世界の直接性・多様性から知を引きはがして、学的体系の一部の構成要素化することによって、無名的中性的真理性として昇華させ、そのことによって、生活世界との媒介性を失ってゆく知の近代の道程を、子どもたちに歩ませること、これが学校教育の任務になっていく。
 前近代の世界においては、知は生活の全体性そのものであった。漁師の子はおとなたちとともに船に乗り漁をする生活を通して、海を知り、魚たちを知った。魚の知は、私が漁をするという具体的で直接的な知であり、生きることとつながっていた。朝の空をにらんで夕べのシケを予測する。そしてあやまたず感じとる知は父祖の生活知の伝統につながり、共同体の輪の中で生きてきたことによってえられた生活知だ。
 近代学校は、この漁師の子を学校に入れ、海流の名や魚類図鑑、天気図の読み方など等を教えた。こうした知は、近代科学の学問体系の一部であり、これらの知は、その体系全体としてかろうじて、前近代の生活知に対抗しうる全体性を持ちうるのだ。天気図が読めただけでは、今、ここで天気がどうであるのか読み取れはしないのだ。近代科学の知は漁師の子にとって外の知、生活と切れたところの知になってしまった。学校の授業の中で、この天気図という「文化遺産」をめぐって、教師が創造的で発見的な授業を展開し、漁師の子どもが家に帰って、おとうちゃん、学校でこんなこと教わった、面白かったと言ったとしよう。きっと充実したよい授業だったにちがいない。しかるに父親は何を見るだろうか。
 前近代の村落共同体には、「政治的教養」と「政治的活動」の区別なんてものはない。生活世界の諸活動と不可分に政治があっただけだ。宮本常一の名著『忘れられた日本人』に対馬での調査のとき出会った村の寄り合いの仕方が書かれている。宮本氏が村の文書を貸し出し願えないかと申し出たのに対し、村人たちが、二日以上にわたって、昼も夜もなく協議をつづける。議論を戦わせるといったものではなく、それぞれが自分の体験にことよせて話す。用事があれば帰って、すめば又来て話す。論理でつめるのではない。連想のおもむくままに世間話のようにして、それに関連した話題を膨らませていく。そうしてみんなが納得のいくように話をまとめていく。こういう共同体の政治には、それぞれの生活を出し合うことはあっても、「教養」として政治的知がぶつかりあったりはしない。生活世界の中に「政治」が慎重に埋め込まれてあった。共同体の世界には、〈教育空間〉は成立しようがないのであった。
 戦後民主教育が「政治」を「教養」化し〈教育空間〉のなかに何のためらいもなく追い込み、その〈教育空間〉の場で成立させる創造的教育の力によって子どもがやがて「政治的活動」として自己表現していくゆくであろう、と夢を描いた。そういうオプティミズムにとらわれ続けてきた。「政治的教養」が生活世界に下降浸透していく回路を、戦後民主教育は夢としては持っていても、方法としては認識したことなどなかったのだ。現実のアクチュアルな世界から子どもを隔離する意識の中では、子どもたちは〈教育空間〉の内部の抽象された政治に対面させられるにすぎない。ここでは教養化した、いいかえれば外部の問題であって、決して自分の生活世界を犯してはこない〈教育空間〉での政治ゲームを、いかに迫真化させるかだけが問題になるだけだ。こうした生活世界から切り離された政治的知は、生活世界を非政治としてくくる心性と、生活世界を〈教育空間〉の政治的言語に整序可能と思い込んでしまう政治的心性を生みだしてくる。

 生活世界から知を分離し、この近代知の体系の中に人を囲い込むことによって、人々を生活世界の外側に出してしまうという構造は、学校という典型的な〈教育空間〉が保有しているものであるが、学校の外の日常生活の世界は、そうした構造を免れている、というのではない。日常生活もまた、学校化の波の中で〈教育空間〉の戦後的膨張の中で、学校知の構造にのみこまれている。
 小沢有作は、今日の教育の現実に足をおきながら、教育学の脱構築を意欲的に展開している数少ない一人である。彼は学校文化を「再生産文化」として位置づける。「学校文化は文化そのものではない。ある規準にしたがって再生産された文化である」として、文化そのものと学校文化を区別する。

 ひとつは国家権力のフィルターをくぐって、もうひとつには専門家(権力)のフィルターをとおって、近代の文化総体のなかからある知識を抽出して再組織・パッケージ化しているものであることはまちがいありません。無限に貯えられている知からあるものを選んで、認識的秩序を整えるのですが、そこにはあるパラダイムが内在・機能しているはずです。(『部落解放教育論』1982)

 このパラダイムは何か。小沢は学校文化の内容的パラダイムと方法的パラダイムをとりだしている。学校の文化は、工業化社会に合うように作られており、伝承文化、話しことばの文化や衣食住といった日常の生活文化が落とされている、というのが内容的パラダイム。要するに、生活世界と学校の知、価値というのは切れているのだ。学校文化の方法は、与えられた階段をのぼる順次性の方法。そしてそこでは答えが一つであり、その正誤の判定者(教師)が評価を独占する。これが小沢の方法的パラダイム。
 小沢の所論は、学校文化が文化そのものでなく、抽出され再編成された文化であるという、学校文化の二番煎じ性、そこに学校文化の「冷たさ」、階級性の再生産の構造をみるものである。民衆のことば、生活・文化といったものは、学校文化そのものによって切られてきたとみるのだ。
 しかし事態はこれほど単純ではないだろう。学校文化の外の文化が、日常生活が小沢が感じているほどには、無限の知のありかでもないし、認識的秩序に編成されてないわけではないのだ。民衆の生活・ことば・文化が〈教育空間〉に編成されてしまっている。民衆が生活の中でつぶやく言葉が自己を編成できない。沈黙の中で自らの姿を構成しえないでいる。〈教育空間〉で流通されることばでしか自らを語りえない〈知の学校化〉は深い。しかし学校化ということ自体が近代の文化総体がはらんだ事態であることをおとすわけにはいかない。近代の知の構造そのものが〈教育空間〉を編成する力を内在させていたことを、学校化とともにおさえておかなければならないだろう。
 I・イリイチの戦略は、学校化社会を支える学校知の変革を通して、近代の知そのものを乗り越えようとしたものであった。

 学校において何でも測定するように教育されてきた人びとは、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。彼らは今さら創造性を奪われる必要はない。彼らは教授活動の下で、自分のなすべきことを「する」(do)ということや、本来の彼らに「なる」(be)ということを忘れてしまい、つくられたもの、あるいはつくり得るものだけを、価値があると考えるようになっているのであるから。(『脱学校の社会』1970)

 よく言われているような「人間の価値は成績でははかれない、学校はテストで子どもをランクづけして、子どもの可能性・創造性をだいなしにしている、だから今日の学校の荒廃は・・・・・・・・」という粗雑な議論をここでしているのではない。学校では価値を測定可能なもの、すべてのものは数量化し比較可能なのだとする、その結果、子どもは創造性を奪われる、というのでもない。教師が教えることによってのみ子どもは学習するという思想を制度化した学校の中で、すでにして子どもは既成の、可能的価値の中にとじこめられて、創造性・学習の自立性を奪われている。
 ここでイリイチが「測定できない経験を見逃してしまう」人間のあり方、測定できないものを第2義的なものとして、測定できないから不明なものとなった経験が人間を脅かすものとなったという指摘の射程をはかってみよう。
 病院に行って医者の世話を受けるのでなければ「健康」という価値を個々人は維持することはできない。学校に通って教師の世話を受けるのでなければ「教育」という価値を自らのものにすることはできない。電車・車といった交通手段に頼ることなしには「移動」という価値を自分のものにすることができない。このように考えて、健康・教育・移動といった価値を、病院・学校・交通機関という制度の発展におきかえて増進させる現代社会のあり様を、イリイチは「価値の制度化」という。この〈制度化〉は、文字通り目に見える制度(学校・病院など)をさしている。が、同時にその制度を価値の表現として打ち立てる意志のことをもさしている。人が学習しようとしているとき、その学習を教授と結合し、学習をカリキュラム化し計画的に一定の結果を引き出しうる過程を人の意識の内に打ち立てるのが「教育の制度化」だ。人が「健康」を維持しつづけようとするとき、それは人間が本来自らのうちに持っている健康維持の力・自然治癒力のはたらきに活動であり、自律的個人が環境の中で対処する能力の発揮において増進されるものである。しかし、社会・環境および社会的存在としての個々人から「健康」「病気」を抽出し、何が健康か、誰が病気か、病人に何をすべきかの決定を医者にゆずり渡してきた(『脱病院化社会』)。これは医療制度の樹立が同時に、人びとの意識の内に、治療の専門家である医師の治療を不可欠のものとして導入し、医師によって計画化された治療のカリキュラム、健康のプログラムを制度化することでもあった。患者−医師、生徒−教師という制度化された関係は、専門家によって価値(健康・教育)がわくづけされ、計画化され、それにもとづいて操作の客体たる患者・生徒に価値が実現されてくるという意識を人びとの中に樹立するものである。だからイリイチのいう「価値の制度化」の概念は、単に目に見える制度のことをさしているばかりではなく、人びとの意識過程、日常的感覚の中に価値を制度としてしかとらえない感性の形成をもさしているのだ。価値が制度化した意識を介してしか見えない。価値を常に制度として固定させようとする欲望といってもよいだろう。イリイチは価値を制度化することが限界を越えると、価値実現にさからってくることを指摘していくのだ。学校化社会、医療過剰化・病院化社会の論理そのものの解体を目ざしている。
 価値を制度として、人間の具体的な生全体から抽出してくる営為の原型は〈教育〉の抽出にある。イリイチが学校という制度の批判から、近代批判をはじめたのは偶然ではない。近代の文化総体を批判し超える根源的な問題領域を教育ははらんでいたのだ。『シャドゥワーク』『ジェンダー』と展開するイリイチの思想的展望は、〈教育〉批判から生まれてきている。私の言葉で言えば、林竹二が人間の営為全体の中に、他の諸活動と不可分に融合していた、それ自体としては存在しなかった〈教育〉を具体的人間の生全体から引き離して抽出してきた、あのきわめてイデオロギー的な手つき、それこそが、近代をつくりあげてきたものなのだ。〈教育〉という制度を人びとの中にうちたてることが、どれだけ人びとの生活世界を解体していったか。それを見きわめる努力として、イリイチの思想をわたしは読んできた。〈教育〉はすぐれて、現代思想の先端の問題を提出しつづけているのである。イリイチの著作は、すべて〈教育〉論として読めるのだ。もちろん、〈教育〉の解体構築へ向けてだ。『稀少性=欠如性の歴史』を書こうとしているイリイチは、その第一歩として位置づけている『ジェンダー』(1982)で書いている。

 学校から家庭、組合から裁判所へと、近代の制度はどれもみな、稀少性=欠如性の前提と合体し、その結果、その前提を構成する単一の性の公準を社会のいたるところにまきちらす。たとえば、男と女はつねに成人しつつあるわけだが、今日では成人するためには〈教育〉が必要である。伝統的な社会では、希少=欠如であると知覚されるよな成長の条件などなくても大人になっている。だが、教育上の諸制度はいまやこう語る。のぞましい学習と能力こそが、男と女が一人前になるために必要な希少=欠如財なのだ、と。こうして教育とは稀少性=欠如性の前提のもとにある生活のあり方の学習を指すものに変わっている。しかし、現代の典型的ニーズの一例とみなされる教育は、それ以上のものを含意している。すなわち教育はジェンダー不在の価値が欠如していることを想定している。教育はいまやこう語る、教育のはたらきを経験する彼/彼女は、もともとジェンダー不在の教育を必要とするひとりの人間なのだ、と。

 生活世界から〈教育〉を抽出し、生活世界を〈教育〉世界として編成しようと意志した近代の知は、それを学校という制度に精選パッケージする以前に、すでにして生活世界を抑圧・変容させる。生活世界に敵対し、それを転倒させる構造を持っていたのだ。だから学校知はそのままで近代の知の範型をなしているのであって、その限定、わくづけでは(本質的には)ない。子どもには教育が不足している、その不足している教育を加えてやろうとするときに、教育は、男と女を、伝統社会の性=ジェンダーが「解きがたく非対称的なひとつの相互補完性」としてあったのを、科学用語で定義される〈セックス〉におきかえてしまう。そうした〈教育〉の実現が、男女間の平和をみだし、ジェンダーの棄却によるセックスの社会的構成を実現し、女性にたいする経済的差別をつくりだした、とイリイチは主張する。生活世界、イリイチの言葉で言えばヴァナキュラーな世界を〈教育〉という制度がいかに「潜在的カリキュラム」によって解体させていったかという主題をイリイチは持続している。
 「測定できない経験を見逃してしまう」人間を学校がつくりだしている、とは以下のようなことだろう。価値とは近代の知においては、測定できる、交換・比較可能な普遍的価値として現れる。生活の個別的具体性を媒介することなしに、誰にでも、「有無をいわさず」「客観的」にどこにでも現前する価値である。たとえば「平和」とは、どこの国でも、だれにとっても均質なものとしてしか近代の知では現れない。だから「平和」も測定しうるのだ。「愛」が普遍的価値であればこそ、「あなたは、私とあの人とどっちを愛しているの」という比較が可能になる。「人間」もしかり、なにがより「人間」的なのか。非「人間」的人間を排除する意志も、この普遍的「人間」への欲望にもとづく。「人間」への求心性が、たとえば「理性」の主体として人間を規定し、非理性的人間、狂人を人間の外にくくってきた近代の知が、ファシズムと地つづきであったのではないかという、西欧近代への内省を、イリイチは当然のことながら、踏まえている。
 価値を普遍的価値と同置することは、価値を制度化する発想とつながっている。普遍性を主張しうるからこそ価値は制度化されうるのだ。生活世界の具体相は、普遍化・制度化への意志ではすくいとれない。普遍への意志は、生活世界のカオスを脅威として排除してしまう。第2義的なものとして整序したとしても、普遍的価値は排除してものによって、不安にさらされる。だから学校知の活動の場である〈教育空間〉は近代の知の限界閾であえいでいるのだ。
 学校知は〈教育空間〉にくくりえない経験と対話することができない。〈教育空間〉に流通する普遍的価値、相互の対話、組み合わせ、差異化としてしか自己の存在を主張し得ない。生活世界は知から隔離された経験全体としてほうりだされたままである。この中では価値は制度から遠く、それぞれの詩をうたいうる多様な相のままにある。にもかかわらず、人びとはそれを制度化された価値の側から整理して、経験全体を安全な領域に囲い込もうとする。これが学校知に典型をみる近代知の構造なのだ。
 5歳の娘が、新聞を見ている私に聞いた。「この子だれ?」新聞の写真を指して言う。新聞には「アフリカの飢餓」という問題が報じられていた。やせた子どもの写真が載っていた。もちろん、どこの誰だということは書かれていない。「飢餓」という問題に還元して、私はその写真を見ていた。だから、聞かれて、とまどった。私は無意識のうちに、抽象的な問題体系に、その写真の子どもを参照させて、世界を理解していたのだった。そういう参照大系−−たとえば「飢餓」というところに還元してしまう知こそは近代知、学校知なのだ。「この子だれ?」という直接性を世界にもとめる知は、学校知によって整理されていくだろう。生活世界のそうした直接性に生きることの困難をわれわれは抱えてしまっているのだ。参照大系のいろいろを〈教育空間〉に浮遊させるゲームは、われわれの生活世界を、直接性の世界を追い出してしまう。学校知=近代知は、われわれを生活世界から隔離し、価値を制度化する欲望のとりこにして、世界を安全地帯にしようとする仕掛けなのではないだろうか。

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 20年以上前の自分の文章を読んでいると、複雑な気持ちが交差します。視野の狭いところとか、いろいろいい加減なところが気になるのですが、なによりもこのときに自分がつかまえたと考えていた問題領域が、今でも、私自身の課題として居座っているせいで、荷物を抱えたままの気分なのかと気がつくのです。問題を提起したらそれで何かした気分でいられた時代だったので、これを書いたときはかなり爽快だった記憶があります。竹内良知先生は、何でも近代知のせいにする私の議論をきっちり批判されていましたが、そのときはわからなかったですね。先生はさまざまな学校批判は、その多くは当たっているけれど、「出口」が見つからないのだ、という意味のことをおっしゃっていました。そういう指摘も20年以上前に聞いたのですが、その意味がやっと理解できるようになったのはこのごろです。
 この「出口」の話をしていてではないのですが、先生と歩きながらたまたまスピノザの話になったことがありました。大学時代から私はそれなりに関心を持っていましたので少し質問しただけで、スピノチストでもある先生のお話にはとてもついていけませんでした。それでもそのときだったか、はっきり覚えていませんが、ネグリのスピノザ研究『野生のアノマリー』のことを高く評価されていました。1981年に刊行された本ですが、もちろんそのころはまだ翻訳などありませんから、私は読むすべがなかったのですが、翻訳が出たら読もうとそのとき思ったのでした。
 今、『野生のアノマリー』(作品社 2008 杉村・信友 訳)を翻訳で読んでいますが、細部までなかなか難解でわからないところだらけなのですが、スピノザが「もうひとつに近代」を切り開いた戦闘的哲学者であることは確認できます。学校教育批判の「出口なき批判」を超えるものを竹内良知先生はスピノザにみられていて、私にスピノザの話をしたのかもしれないなと、今頃気がついています。
 33年間教員をやってきた総括をやっとできるスタートに立てた気がします。亀のような歩みでしかないでしょうが、自分が納得がいくようなところまでは行きたいと考えています。



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戦後民主教育その可能性と不可能性 4 戦後民主教育の空間 

4 戦後民主教育の空間

 戦後の教育改革に立ちあってきた人たちの中には、戦後の教育改革を国家主義教育から「民主」「人権」「平和」の教育へという整理ではくくれないものを感じてきた人もいただろう。たとえば「教育基本法」の審議過程のなかで、佐々木惣一貴族院議員は、教育というものが如何なる目的を持っているかというようなことは、元来法制で定べきであるかどうかについては議論の余地がある、と発言していたという(大田尭編著『戦後日本教育史』)。〈教育〉というものを公的なものとして囲い込むことに、一定の疑問があったと理解してよいだろう。たぶんに私的な領域のなかで他の諸活動と区別のつかない、その意味で〈教育〉ともいえないものを、国家が「教育基本法」として取り出し、教育の目的を説き、その目的は「あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」と規定することによって、決定的に〈教育〉は公的、国家的規模に拡大していったのだ。〈教育〉の中身は違っても、〈教育〉を公的なものとして位置づける点では、教育勅語も教育基本法も同じなのだ。
 こうした、教育=学校教育機能の戦後における新たな拡大に対して、戦後思想の中に一定のゆらぎがなかったわけではない。戦後の国語教科書に文学教材が登場してきたことに対して、文学への開眼を学校教育という公的な場の外で行ってきた自らの体験をふまえて、その危険性を、竹内好は指摘していた。

 娯楽として排斥されていた芸術を、正当に教育コースに取り入れた代償は、芸術を教養として、生活の余剰部分として見る傾向を生じたことである。娯楽として排斥される運命を免れることによって、今度は、茶の湯や生け花と同様の、一種のたしなみとして理解されるよううになった。……教養主義は文学精神とは反対のものである。教養主義に陥ることは、文学の本質的理解を妨げる先入主によって目隠しされることなので、文学への開眼にとって逆効果である。せっかく文学教育を人間形成の不可欠の要素として取り入れながら、そのために、この逆効果を招いたのでは何にもならない。それくらいなら、はじめから教育コースの外に放任しておいたほうがいいのである。(「人間・芸術・教育」1952)

 竹内好は、このように文学教育の可能性への疑問を提出しながらも、結局は教育と芸術の深いところでの類似性といった言い方で、文学教育の夢を許容していくのだが、〈教育〉の拡大に立ちどまってはいるのでる。
 しかし、戦後教育の支配的言説は、竹内好もふれていることだが、教科書に文学教材が登場することによって、かつての時代には、文学に接することもなかったろう多くの子どもたちが、文学の世界に出会えるようになったことを積極的に評価する。しかし、戦後教育の支配的言説は、さらにもうひとつ踏み込んで言う。文学に出会う機会を、学校教育のなかで、教師によって子どもたちに保障されることがないならば、それは子どもたちにとってどんなに不幸なことであるか、と言明する。文学教育に限らない。「今、ここで×××を学ぶことがなかったならば、子どもたちは永久に×××を知らないでしまうかもしれない」という言葉は、どんな教師のものであってもよい。この子どもたちと×××(数学、自然科学……)の出会いのために、教師は授業をみがくのである。
 つまり、戦後教育は、子どもたちが生活世界の中でその生活の世界にみあった仕方で世界を学んでいく可能性など信じてはいないのだ。今、学校で、教師によって、子どもの中からその可能性を引き出さなければ、開化すること、子どもの中の創造的なものが開花することが永久になくなってしまうかもしれないのだ。そういう心配に取りつかれてゆくのである。あたかも、「あの人は私がいなければダメになってしまう」と恋する人のように。
 このような戦後教育の言説には、人間の「全面発達」という言葉に象徴される普遍的人間の形成というイデオロギーがつまっている。たとえば、この人間観によれば、いろんな職人さんが、自分の手仕事の世界とそこから見える世界以外のことは知らないというのは、人間的成長がそれだけイビツであると断定する人間観である。数学もテニスも書道もできないというのは「全面的発達」人間ではないわけだ。
 こうした戦後教育の自己肥大を、もっともみごとに定着して見せたのが斎藤喜博であったろう。

 どの子どももがみな、無限に自分を伸ばしていく欲求と可能性とを持っている。そういう可能性を実現させてやることこそが教育であり、専門家としての教師の仕事である。………教師の力によって、子どもはよくも悪くもなるし、どの子どもからも無限の可能性を引き出すこともできる。………教育において、子どもの可能性を無限に引き出すということはどういうことなのであろうか。それは1時間1時間の授業を的確にやり、授業のなかで子どもの認識を拡大深化させ、再創造させていくことである。
 子どもの認識を拡大深化させ、再創造させるために、いちばん大きな手がかりとなるものは、人類が積み上げてきた文化遺産である。教師はそれをつかい、そのなかにある方則なり、知識なりを、1時間1時間の授業で的確に子どもに伝達し、一つ一つ積み上げていく以外に、子どもの認識を拡大深化させ、再創造させていくことはできない。それ以外に方法はないと私は考えている。よく「イデオロギー」とか「生活をみつめる」とか主張するものがあるが、そういうことで子どもの認識をほんとうに変えていくことができるとは私は思わない。子どもは文化遺産を的確に獲得するすじみちのなかからだけ、自分の認識を拡大深化させ、自分の可能性を十分に発揮することができるのである。(『未来誕生』1960)

 斎藤喜博の〈教育〉の言説は、戦後民主教育の到達した水準を正確に示している。
(1)子どもは無限の可能性をもった存在であり、戦前のような訓致、道徳教育による教科、「しつけ」の対象として限定されるものではない。(子どもの発見)
(2)子どもの無限の可能性は教師によって引き出されてこそ実現する。教師のかかわり、〈教育〉としての働きかけの重大な役割が登場する。戦前の教師のように限定された役割とは比較にならぬ大きな責任を教師がかかえてくる。(〈教育〉の発見。〈教師〉の発見でもよいが。)
(3)子どもと〈教育〉が発見された場はどこであるか。斎藤の言葉で言えば「文化遺産」である。〈教育〉が成立するのは「生活」においてでも「イデオロギー」においてでもなく、人類の「文化遺産」という”普遍的価値の場”においてである。もちろん、「文化遺産」は、教育基本法に書かれている「真理と正義」でもよい。「科学」と言ってもよい。(〈教育空間〉の発見)
 斎藤喜博は学校がいかに無限の可能性あふれる創造性を持ちうるのかを実践によって示そうとした。学校教育のすばらしさを語りうる時期を、戦後民主教育はかつて持っていたし、いまも持ち続けているのかもしれない。その根源には、子どもの発見と〈教育〉の発見、そして〈教育空間〉の発見がある。〈教育空間〉を制度化したのが学校であった。戦後民主教育が到達し、立脚しているこの〈子ども〉─〈教育〉─〈教育空間〉が、実は啓蒙主義の発想の枠を一歩も出るものではなかったことを人は気づかねばならないだろう。
 戦後思想は、その出発点において、「平和」「民主主義」の価値を、国民各層に浸透させることの必要性を語る啓蒙主義であった。この思想の啓蒙主義性は、必然的に生活世界を〈教育〉世界に編成しようとする磁場をつくりだしていた。こうした磁場の中で、戦後民主教育は自己形成した。「平和」「民主主義」という戦後的価値を子どもたちの中に育てようとするとき、子どもたちが自ら「平和」「民主主義」をつむぎだす空間はどこなのか。それは「学校」であるとおおまかに言っておこう。しかし正確に言えば学校が対面させてくれる「文化遺産」という場においてではないか。
 斎藤喜博が子どもを無限の可能性として位置づけたのは、西欧の教育思想からではない。学校において「文化遺産」という空間での子どもたちとの出会い。そこで子どもたちを発見していったのだ。いいかえれば、無限の可能性をもった子どもたちというのは「文化遺産」に向き合ったところで、そこに立ち会った教師によって発見されてきたのだ。子どもが地域社会や家庭生活のなかで、どういう姿と可能性をもっているか、ではない。地域のあれやこれや、家の事情のどうのこうのは「文化遺産」のなかに高度に洗練されてあるのだから、そもそも二次的な問題である。子どもは「文化遺産」のなかで生きるようになる。そういう抽象的空間を戦後教育はつくりあげることによって、無限の可能性としての子ども、〈教育〉の可能性を構築しえたのではないか。啓蒙主義の依拠する「文化遺産」「真理」「科学」が〈子ども〉を発見し、〈教育〉を見出したのである。戦後民主教育は〈子ども〉と〈教育〉を日本の近代において真に誕生させたのであるが、それはもちろん、あるがままの〈子ども〉でもないし、生活そのものと不可分な領域としての教育でもなかった。「文化遺産」「真理」「科学」という教育空間のなかで共に抽出されてきたものなのだ。だから今日、〈子ども〉と〈教育〉は宿命的なまでに、ともにしか語られないのだ。
 戦後民主教育が発見した〈教育空間〉は自己増殖的に肥大化する構造をその内にもっていた。啓蒙主義者が「真理」や「文化遺産」をにぎったら自動的に膨張するものなのだろうか。使命は、自分が世界をどのように変えようと欲望しているのか、ほんとうは知らないところに特徴があるのかもしれない。

 子どもの場合は授業がおもな人生経験である。したがって、授業が豊かになり、幅と深さを持って、はじめて子どもも豊かな人生経験をするということになる。授業が追求的になり、創造的・発見的になったとき、そういう人生経験を蓄積することになる。授業のなかで、教材や他の子どもとほんとうの対面をしてはじめて本当の意味での他との対面の仕方、自分との対面の仕方も学びとることができる。子どもにとっては授業は、そういう意味での大切な人生経験の蓄積の場である。(『授業』1963)

 授業が人生経験だ、とはなんとも象徴的な要約ではないだろうか。授業の他の人生経験は「おもな」ものではなくなってしまう子どもの生活というものを戦後民主教育が、斎藤喜博の言うように実現したと仮に想定してみよう。こうした転倒を転倒とも錯誤とも思えぬほど戦後の教育空間は自己肥大してきたのだ。もちろん、教室での教師と生徒、生徒どうしのきびしい高めあいが、創造的になりうるだろう。しかし、それは、人が学校以外で創造的な関係を築きうる多くの機会を持っているのと原理的に同じことなのだ。なぜ学校という空間、「文化遺産」がつまっている学校という空間においての、人と人とのきびしい高めあいが特権的に膨張してくるのか。
 もし教師が創造的体験を生徒とともに実現しえなかったら、子どもたちの成長の機会、可能性を奪うことになるのだ、となぜ戦後民主教育は考えるのか。学校の外での生活世界は、子どもたちのために上手に仕組まれた教育的世界ではない。生活世界の丸ごとを〈教育〉として編成しなければならないという意志は、ありのままに放置されている世界は、非創造的な因習と悪の渦巻くカオスであるという認定がある。生活世界そのものを暗部としてくくる発想が強烈であればあるほど、人は〈教育空間〉に逃げ込もうとするのだ。戦後思想が、生活世界を封建遺制や非合理に囲った啓蒙主義性に、斎藤喜博の教育論は正確に見合っているといえるだろう。
 戦後民主教育論のこううした構造は、1955年前後からの「逆コース」、教育政策の反動化を対照の鏡として、55年以降、60年代の「国民教育論」として一般的に表現されてきた。国民教育論は教育の民主化の課題を平和と独立を担う国民の教育と結合し、国家の教育統制に対抗しながら教育の自律性を確立し、国民を教育の主体にすえようとするものであった。この国民教育論では、安保条約に示される日本の独立の危機という政治的問題を、教師が子どもたちに直接ぶつけるのではなく、「教育自身の論理」にそくして子どもたちに提起しなければならない、とされている(たとえば第10次日教組教研集会での上原専禄の講演「民族の独立と国民教育の課題」)。
 国民教育論がくり出される基礎に、この「教育自身の論理」がある。たとえば次のように。

 権力が教育の〈中立性〉をおかしているとき、教師はそれに対抗して、階級教育の立場に立って教育活動を行うべきだという考え方がある。階級教育……かりにそれを労働者階級としての階級意識を直接に植えつけるための教育と考えれば、教師はそうした意味での階級教育の立場に立つ必要はない。科学と芸術の教育、真実を追究し、人間性を尊重し、平和を守り美しいものを愛する教育を徹底的におしすすめることこそが、教師の勤労者階級層、諸階級に対して直接に負わされた責任である。(日高六郎「政治の責任と教育の責任」1960 『日高六郎教育論集』)

 「いま教育は、さまざまな政治、経済の波にほんろうされて、危機的状況にさらされている」といった言説は、体制側からも、右からも左からもきこえてくる。そして、体制も右も左も、戦後教育が生み出した〈教育空間〉を前提に、こうした言説をくり出している。
「真理」や「文化遺産」の中身をめぐっての争奪はあっても、戦後民主教育の空間は不問に付されている。斎藤喜博が、子どもを発見し、教育を可能性のなかに解放し、「文化遺産」を軸に教師と生徒、生徒どうしが火花をちらして高まりあう「教室」という〈教育空間〉を、教師自身のまとった、さまざまな実践の魅惑という鎖を自覚化するなかで、掴み取っていかなければならない。

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戦後民主教育その可能性と不可能性 3 生活世界の〈教育〉化への意志

3 生活世界の〈教育〉化への意志

 たとえば「教育勅語」に、”臣民”の生活全体を〈教育〉化する意志がうかがえるだろうか。戦前の国語教科書に載せられた、さまざまな軍国主義的〈美談〉に、人々の生活の隅々を組織しようとする意識があったのだろうか。勅語の世界に臣民を引き入れること。〈美談〉の世界に子どもたちを生きさせること。そういう意志を強烈に持ってはいたが、人々の生活世界を根こそぎ〈教育〉化しようとする野望をもつことはなかった。特攻隊員を養成することはできたが、終戦とともに人々は生活の方へ帰っていったのである。
 もちろん、西欧世界において、社会生活への手ほどきとも、一定の職業や役割への準備教育とも違って、古典の教養による普遍的な人間の形成という観念──〈教育〉という観念は18世紀に成立していた(アリエス『〈教育〉の誕生』など)。日本における近代学校制度の導入であった1872年の学制の理念に、こうした西欧教育理念の型を見ることは、一応できるだろう。

人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ。身ヲ脩メ智ヲ開キ、才藝ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ脩メ、智ヲ開キ、才藝ヲ長スルハ、學ニアラサレハ能ハス。是レ學校ノ設アル所以ニシテ、日用常行、言語書算ヲ初メ、士官農商百工技藝及ヒ法律政治天文醫療等ニ至ル迄、凡人ノ營ムトコロノ事、學アラサルハナシ。人能ク其才ノアル所ニ應シ、勉勵シテ之ニ從事シ、而シテ後、初テ生ヲ治メ産ヲ興シ、業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ。サレハ學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ。(學事獎勵ニ關スル被仰出書)

 この「被仰出書」が出されたとき、生活のためには学問というものが必要なんですよ、という説教を、どれだけの人々が納得しただろうか。百姓に学問はいらない!と一喝して、進学を希望する成績優秀な息子の前途を妨害した父親の物語は数え切れないほどだろう。この物語を父親のほうから読めばいいのだ。この物語を、学に志す青年の前に立ちはだかる封建遺制としかよめなかった戦後教育は、この「被仰出書」が個人の生活を成立させる基礎としての「学」の位置づけが、やがて教育勅語に象徴される国家のための教育に吸収され消滅していく過程を戦前の教育史として描き出す。したがって、近代日本教育史の常識は、国家による教育統制、国家の手による教育が、「学制」の個人主義的教育観から転換し、1886(明治16)年の森有礼の「学校令」によって国家のための人材育成として本格的に展開されはじめ、1945年に崩壊する、というものである。また、戦後は学校教育制度および教育内容の民主化過程が、国家による教育という根深い発想に対抗しながら、国民の教育権として定着をしていく、というふうに描き出されてくる。
 こうした教育史の通説には、明治国家が移植・組織した近代学校制度が、〈教育〉をどのように人々の生活世界に持ち込み、生活世界を、どのように変容させていくものであったかを見抜く視点が欠如していた。それは、国家による教育組織化、公教育制度の国家統制にひきつけられるあまり、これを批判する側も、それへの対抗として自らの理念を描くという制約に無自覚だったからである。図式化していえば、戦前の近代学校から、国家によるその教育統制・教育内容の統制を引き算して、そこに「民主主義」「平和」を足し算すれば、日本の教育そして社会は平和な民主主義社会になるという発想である。本来、善である教育を国家が自己利益のために独占し利用したのは誤りであるが、〈教育〉〈近代学校〉そのものは〈善〉であるという発想を疑うことを知らなかったのである。だから、戦後教育の思想が自ら強力に育んでいった生活世界の〈教育〉的編成に深く気づくことはなかったし、それが戦前と戦後をわける大きな変容だとも気づいてこなかった。
 現代のわれわれの生活世界は広く深く〈教育〉に囲い込まれてしまっている。クーラーをインプットされた生活からクーラーを除くことがむつかしい、というより考えられなくなっているように、われわれの生活から〈教育〉というプラグを抜くことは考えることすらできなくなっている。こうした生活世界の〈教育〉化への傾斜は、基本的には戦前の国家による教育には見られなかったことである。
 戦前の国家主義教育においては、生活世界を〈教育〉化することが国家権力の主たる戦略目標ではなかった。子どもたちを様々な生活現実から引き離し、学校に囲い込み、天皇制国家の価値観を注入することがめざされているのである。天皇制国家の価値を人々が生活の中に引き受けるために、「天皇のために戦う」を「親のため」「隣人のため」「友人のため」と置き換える努力をしたとしても、それは天皇制国家の教育がその構造のなかに、生活を〈教育〉によって隅々まで組織する力を持っていたのではない。人々は、何の注釈もなく提示され強制された価値に、誠実に生活の方から接近せざるをえなかっただけなのだ。生活現実の様々なありようの隅々まで〈教育〉として把握しなおすことを通して、権力の意志を実現しようという周到さを見ることはできない。
 もちろん、国家権力の意志とは別に、近代学校制度の成立は、生活世界のなかで価値とされてきた伝統的生活知とは別のところに、学的大系の末端としての学校知を子どものなかに打ち立てることによって、生活世界から子どもたちを引き離しはした。しかし、生活世界は、親、地域社会の確からしさ、手触りのある直接感受の世界として、学校知とは別のところで確固として存在し続けていた。学校知は生活世界の知を絞殺などできはしなかったのだ。国家は、生活世界の”本音”を〈教育〉でからめて”たてまえ”に合一させる力を持ってはいなかった。
 天皇制国家の物語に、心身を占領された体験から、天皇制国家の教育を過大評価してはならない。近代学校そのものが持つ魔性を国家権力による教育統制のこわさと読み替えてはならない。だが、戦後民主教育は、この国家権力の教育統制の過大評価と、近代学校=教育の価値の神聖領域への囲い込みという錯誤から出発したのだった。
 生活世界を〈教育〉化しようという明確な意志が成立するのは、戦後民主教育の空間においてである。
 戦後思想の出発点は、15年戦争に国民を同伴させた内的要因として、国民の生活にのこっている封建的因習、〈天皇〉に依拠して個の責任を消去する無責任大系を生み出す近代的自我の欠如、等などを明るみにだすことであった。天皇制ファシズムの野蛮・暴力の克服のためには、近代の合理主義精神・理性主義・科学的精神の徹底が必要とされる、というのが戦後思想の共通認識であった。ここでは、西欧の知性が、第2次世界大戦の終末に、近代的理性・科学がつくりあげてきたものによって、ほかならぬ人間の死がセットされてしまったと予感していたもの(サルトル「大戦の終末」1954『シチュアシオン』Ⅱ)とは逆のベクトルの磁場が形成されていた。
 戦後のこうした近代啓蒙主義の磁場が、戦後民主教育の決定的枠付けを行い、戦後思想の変容にもかかわらず戦後民主教育は、その後も基本的に一貫して近代啓蒙主義思想の枠から出ようとせず、岩屋の肥ったサンショウウオのごとき悲劇を自演することになってしまった。
 戦後民主教育は「平和」「民主主義」の価値を、国家主義の価値に代えて、子どもたちにインドクトリネートするという水準にとどまるものではなかった。「平和」「民主主義」の注入教育ではなく、子どもが自主的・自覚的にそうした価値を創造・発見してゆく道筋をつける援助として、戦後教育は自己規定してきた。そうすると、戦後教育は子どもの自発性・自主性の発生の場の組織者とならねばならない。子どもたちを囲む社会・家庭・大人、そうした生活の全領域を〈教育〉の場に引き出す必然性をかかえもっていくことになる。生活世界の全領域を〈教育〉化する意志は、戦後の近代啓蒙主義の顔に他ならないことを、たとえば清水幾太郎の『今日の教育』(1947)はよく示してくれている。
 ここで清水は、戦後の教育改革に大きな影響を与えたアメリカの教育思想を批判しながら、「教育の社会的分散」ということを提起している。アメリカの教育思想は、環境を変えることによって人間をいくらでも変えることができると考える。つまり、環境を変える政治は、人間を変えることで環境を改造する教育なかに解消してしまうとアメリカの教育思想は考える。しかし清水によれば、こうしたアメリカの教育思想のオプティミズムは、アメリカではすでに民主主義が確立していることからくるのであって、民主主義の伝統ができていないばかりか、野蛮な支配の伝統に人々が引っ張られがちな日本にはこのオプティミズムは通用しないと言う。教育とは別に政治に力を入れなければならない日本の現状を確認した上で、清水は、教育に関して、その「社会的分散」を主張する。

 教育の社会的分散の問題………これは教育活動を学校という施設の独占とせず、寧ろこれを社会生活の全領域に分散せしめ、組合、会社、工場、その他凡ゆる社会集団の機能たらしめることであって、これ等諸集団の民主化というのは、かかる内容を持つべきである。教育活動をその機能として自覚することなしに、民主化を云々するのは無意味である。教育の社会的分散とは、多くの社会集団が夫々学校という無風帯をその内部に持つことではない。これ等の集団の教育活動は進んでその特有の業務や機能と結びつくべきである。業務や機能との関係に於いて行われる特殊な教育が望ましいのであって、若しそうでなかったら、何も教育の社会的分散を唱える必要はないのである。(『今日の教育』1947)

 近代的人間の形成という戦後思想の設定した課題そのものが、〈教育〉を生活世界におろしていくことにつながっていた。近代的人間という普遍的価値を社会諸集団の中に樹立するためには「人間的過程への積極的干渉としての教育」が必要だということである。いいかえれば、戦後の「民主化」は人々の生活世界の中に〈教育〉という制度を打ち立てることによって実現していくのだと清水は主張しているのである。
 清水幾太郎は、アメリカの教育思想があまりにも社会変革の力を教育に見すぎるのを批判しながらも、教育を通して民主主義社会を形成しうるという教育の可能性を受けついだ。人間は教育によってどのようにも変えることができるのだという操作主義的人間観をも受けつぐことによって、人間の生活世界をまるごと〈教育〉として編成可能であり、それが民主化のために大切、必要なことと主張しているのである。
 戦後40年の過程のはじめに、この清水の主張を置いてみると、清水の主張は、みごとに、あるいは清水の主張をはるかに超えて、「教育の社会的分散」は実現している。生活世界が、みごとに〈教育〉として編成替えされてしまった。企業の社員研修、企業の消費者教育から○○スクールにいたるまで、すべて〈教育〉的視点を軸にしている。そのうち夫婦も〈教育〉的関係だとして、夫婦生活学校ができるだろう。しかるに、「民主化」は実現したか?

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戦後民主教育その可能性と不可能性 2〈教育〉という制度

2 〈教育〉という制度

 教えるということに不動の確信を持ち、重大な責任を負ってゆこうとした教師の代表的一人に、林竹二がいた。彼の高名な授業「人間について」の記録を読んでいると、そこに明確な教育論が展開されているのがわかる。
 林竹二は、この授業のはじめに生徒に問いかけている。「カエルの子はカエルであるが、人間の子は人間の子であるか」と。林竹二の用意している答えは、人間の子は学習によってこそ人間となる、ということだ。カエルの子は自然にカエルになるが、人間の子は自己形成的努力によって人間になれるのだ。そこが動物と違うところだ。ここには、学習が人間の形成にとって欠くことのできない営為である、というイデオロギーがある。
 
 かえるがひとりでに泳げるように、それから地上を歩けるように、人間の子はひとりでに2本の足で歩けるようになると思う? ならないね。やっぱりそりゃ学習ですね。勉強して、練習して、猛烈に練習してはじめて2本の足で歩けるようになる。猛烈な訓練をやっている。自己訓練をやっているんです。あたりも全部こう立って2本の足で歩くでしょう。だから子どもだってやっぱり自分も2本の足で歩こうとするわけ。それには大変な練習が必要なの。だからそれは学んで初めてできるようになるんですね。(第4回兵庫解放教育研究大会 公開授業記録 1977年 『解放教育』1978.2)

 〈教育〉という制度をうち立てるには、日常的世界感受の仕方を転倒しなければ不可能だったのである。林竹二の人間観は、人間を教育−学習人間とくくる。人間は教育され、学習しないと人間になることはできない、人間はほっておいたら、猿に育てられたアマラやカマラのよに、4本足で歩くようになってしまうんだ。林竹二は、この授業で人間は学習することによって人間になると言っているが、教育されることによって、とは言ってはいない。社会や家庭の中で生活しているうちに自分で学び取ってゆくことによって人間になるのだと言っている。しかし、林竹二が言っている〈学習〉〈勉強〉〈練習〉は、それをさせる側を語っていないのではない。学習・勉強を可能にする人間の家庭生活・社会生活を〈教育〉の場として抽出してみせているのだ。日常的感覚では、赤ちゃんがいっしょうけんめい二本足で歩こうとする行為を、意識的で苦痛でもあるだろう学習とは考えない。ましてや”猛烈な訓練”だ、などと誰が考えるだろうか。こういう非日常的な”解釈”を導入して、はじめて〈教育〉が制度として人間の中にうち立てられるのだ。
 林竹二は、この〈教育〉を生活世界から抽出するのに、人間社会から切り離された情況のなかにおかれた人間−−−オオカミに育てられた少女−−−との比較という操作を必要としていた。林竹二は慎重に注をつけている。「人間の社会で育つというようなことを抜きにして人間の子は人間というふうにいえるかどうか」と。ほっておいても、赤ちゃんは言葉をしゃべりだし、二本の足で歩くようになるものだという常識的な見方を転倒させるのに、人間をその社会から切り離せば・・・・・という、実験で仮構された抽象を必要としたのだ。そのことによって〈教育〉〈学習〉という世界を生活世界の自然から取り出しているのである。生活世界の中に埋め込まれて、他の諸活動と区別のつかない〈教育−学習〉を、生活世界から分離させ、独立の営為、”猛烈な訓練”として位置づけてしまったのだ。
 人間の生活世界を成立せしめている諸要素を分解して人間に迫ろうとする意志が、〈教育−学習〉人間を一つの映像として仕立てたのである。
 〈教育〉の欠如態としての動物。もし〈教育〉がなかったら人間も動物的存在に堕ちてしまう。そういうイデオロギーを成立させている。悲しみも喜びも、人間は教育としての環境によって身につけることができる。だから林竹二は、アマラとカマラの現実を見る目をうばわれていく。

 そこでやっともうアマラは死んでしまったんだってことを感じたんでしょう。それを感じた時にカマラの目から、両方の目から涙が一粒ずつこぼれてそれっきり。一粒ずつこぼれただけ。しかし、悲しいという表情はないですね。悲しみの表情はない。しかし悲しんでいることは確かですね。20日の間なんにも食べない。そして、アマラを探して床を、こう、かぎまわっている。最初の一日は水も飲まなかったそうです。水も飲まない。何も食べないでアマラを探し求めていたんですね。それでどうしてもアマラはもう姿が見えない。だからたった一人の仲間がいなくなってしまったことを確認せざるをえないわけです。

 まだ動物的状態にあるカマラからは、前教育的証拠を抽出しなければならない。仲間の死んだ悲しみさえ、教育されていないカマラは持てないんだ、と。そういうイデオロギーが、林竹二に「涙が一粒ずつこぼれてそれっきり」「一粒ずつこぼれただけ」「悲しみの表情はない」と言わせている。〈教育〉という制度を仮構しないで見るならば、20日間何も食べないことがどんな大きな悲しみの表現であるか、わかりきった話なのだが、悲しみの感情でさえ、〈教育〉としての人間的環境が必要だとしゃべりたいために、こうした混乱した表現になってしまったのだ。
 人間は愚かさの中に生まれたが、学習によって自己訓練によって、裏がえせば、それを助ける教育によってこそ人間になるのだ。そういう〈教育〉を見えない制度として人間の生活世界にうち立てる。動物的自然状態からの脱出を人間ははからなければならない。〈教育〉を欠如された状態がいかにおそるべきものか。あなたはどれだけ人間ですか。人間へ向かって自己訓練をやっていますか、という脅迫にも似た〈教育〉イデオロギーが成立する。もちろん、ここで林竹二が出しているのは学校教育のことではない。今の学校教育が、いかに子どもの学習を破壊しているかを林竹二は強調する。林竹二が言っているのは、人間の生活世界は、教育−学習の世界なんだ、人間の人間となる根拠は、そうした教育−学習の世界のなかにあるのだ、と言っている。
 人間の生活世界というものを教育世界に編成していく思想的営為は、実は、林竹二個人の特性ばかりではなく、戦後民主教育の最も深い構造に根ざしていることなのであった。人間の営為全体を教育的世界としてとらえなおすことが、全面的に展開されてきたのが戦後教育においてであっただろう。いいかえれば、〈教育〉が我々の日常のすみずみ、24時間をとりしきり得、それが人間の生にとって積極的意味を持っているのだという〈教育〉への意志が、拡大、肥大、浸透していく過程が、戦後教育史の通奏低音なのだと言えるだろう。

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戦後民主教育その可能性と不可能性 1 〈教育論〉のサーモスタット

戦後民主教育その可能性と不可能性
1987年
北爪道夫

-----未来は、絶対的危険という形でしか先取りされ得ない。それは、構成された正常性とは絶対的に縁を切るものであって、それゆえ、一種の畸型としてしか自身を予告し、現前させることができない。
J・デリダ

1 〈教育論〉のサーモスタット

 〈教育〉という思想ほど、自己防御のための装置をまとっている思想はないだろう。〈教育〉ほど多弁でありながら、自らを開示しない制度もまたないだろう。幾重ものサーモスタットの中で〈教育〉は生きながらえてきた。この〈教育〉のしたたかな生命力の老い先のために、そのきらびやかな装置を外してやらなければならない。
 政治家や政治家もどきの教育論は論外とすると〈教育論〉は常に”実践”のくさりを安全装置としてきたろう。とりわけ教師の教育論は実践から離れられない。実践をふまえない議論は軽蔑・反感・無視あるいは同類のことだが、御拝聴の対象になるだけである。〈教育〉は実践の言語でうめられてきたと言ってよい。
 日教組の教研集会の近ごろはどうか知らないが、かつては、議論が政治や理論に傾いていくと、会場から「子どもの姿が見えないゾ〜」と声がかかってきたという。子どもの姿を抜きにして教育を語ることはできない。子どものあれこれの具体的表情を思い浮かべることのできないイデオロギー論争は、教育を語ることにならない。そういう言語は、教師の教育論の宿命的スタイルになっている。
 そんなことはない、理論による展望をもたない「はいまわる経験主義」はすでに克服されてきている、と声がする。理論をもった実践主義にしたところで、実践のくさりを持っていることに違いはないのだ。こうした〈教育論〉の実践との不可分離性は〈教育〉自身の思想を防御する装置であると同時に、〈教育〉そのものの思想的表現であるのだ。
 〈教育〉を実践の言語で語ることが、その積み重ねが、やがて教育理論の構築に到ると楽観的に展望していた戦後の思想家の一人に日高六郎がいる。恐らく現在の日高六郎は、そんなところにはいない。1960年前後、日教組の教研活動に思想運動を読みこんでいたころのことだ。日高六郎は、教育理論、政治理論にとどかない、あるいは不信をもった現場の教師が「むずかしいことはわかりませんが、しかし、現場では・・・・・・・・」というスタイルで語る現場の実践主義・実感主義の危険性を指摘して、つぎのように語る。

 理論派と実感派との共同作業として、一つ一つの経験や実感をどこまでも尊重し、その経験や実感のなかに理論的な芽を見つけながら、さらにその断片を高次の段階へと結びつける契機を求めていくというような内在的な方法が本筋だと思う。(「具体的経験と理論的抽象----第7次別府集会に参加して」『日高六郎教育論集』1958)

 日高六郎は戦後民主教育運動の中に、日本の思想的伝統の病の克服を夢見ていたのだ。「〈体験〉から〈思想〉〈制度〉の次元へと上昇することなしに〈思想〉信仰と〈制度〉信仰から下って民衆の〈体験〉をこぼれおちなく分類整理説明できると考えた」(「戦後日本における個人と社会」1970)日本の知的伝統の病の克服をだ。
 しかし、日高六郎は、教師の経験主義・実感主義を読み誤っていた。教師の経験主義・実感主義は決して「理論」の対極などではない。現場の実践と経験は、「理論」の欠如態ないし希薄態などではない。戦後の民主教育が、まさに〈教育〉の言語を実践の言語の中に囲い込んだものなのだ。教師が、子どもに生活綴り方を綴らせる。百姓の仕事はつらい。いくら働いても貧乏だ、等など子どもたちの表情・感動・発見を一つ一つ実践報告に綴っていく実践・実感派の教師の営為はどこからくりだされてくるのか。それは一つの明確な教育論から生み出されている。実践を基礎づけている外部の理論は存在しているにも関わらず、個々の実践の言語がやがて理論を構築するかもしれないが、まだ不定形のままである、という虚構をつくることによって、実践は外部の理論を防御している。”実践”はまさしく〈教育〉という制度のサーモスタットなのだ。
 日高六郎じしん、第7次日教組教研の時点での、この実践の外部の理論をみごとに取り出しているではないか。

 政治的・社会的な「壁」はどのように高かろうとも、やはりそのなかで教師は、日々くりかえし地味な教育実践に取り組まざるをえないのである。しかし、じつはそのような気長なくりかえしのなかに、その「壁」を少しずつ堀くずす作業が含まれているのではないか、また、その気長な作業は、教師が教室の内外で、子どもたちの幸福と人間的成長を願いながら、日々くりかえしている仕事と矛盾しないのではないか。(同前)

 実践主義者としての教師の思想的頽廃は、やせた時代遅れの理論を持っているくせに、あたかも実践のなかで編み上げようとしているかのように、民衆の〈体験〉の次元から教育理論を組みあげようとしているかのようにふるまい、そのことによって、粗雑な姿を鏡に映されることを拒むところにある。教育実践を成立せしめ、実践そのもので語らせている〈教育論〉こそが語られねばならないのであって、実感主義・経験主義に反対する仕立てられたナントカ教育論が問題なのではない。
 〈教育〉は自己を明かすことを拒む実践の言語の中で、眠りをむさぼっている。〈教育〉が不可視の制度であり続けているのは、〈教育〉それ自体に自己開示を拒否する装置が備わっているからに他ならない。教師の実践主義に囲われたいびつな言語がそれらの装置を飾っている。

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(3) 解放「教育」とスユノモの「反教育」

 九老にあるスユノモの「分室」では高校生や中学生たちが講師の「史記」の授業を熱心に受けていました。参加体験型の授業でもなければ、ゼミ形式の授業でもない、ときどき学生たちにテキストを読んでもらい、講師が話す、いわば伝統的な「授業」でした。そこで私たちはシ・ソンさんという若いスタッフからこんな話を聞きました。
 授業に出ても規則を守れなかったり、勉強できない子は「来るな」と言うようにしていると。ここは塾と違ってもちろん授業料もありません。周りは低所得者層の多い労働者街です。それでも労働者は子どもたちに勉強させようとスユノモの「塾」に送り込んできます。しかし勉強する気のない子どもたちも親に言われて嫌々やってきたりします。そういう子どもたちには、勉強を本当にしたくなったらいつでも来なさい、でもいまはダメですと言うのだそうです。
 おそらく、解放教育(これはすでに「死語」でしょうが)や同和教育に熱心な先生方は、「差別の結果、勉強できる環境や、勉強の意味を見つけられない被差別の子どもたちを切り捨てているではないか」と怒ることでしょう。差別に負けた子どもたちを立ち上がらせるのが教育ではないかと。「荒れた」子どもたちに熱心に関わる教師たちを私たちはたくさん知っています。こうした解放教育・同和教育の「遺産」は、そうした教育を知らない先生でも子どもたちの「ケア」をしなければとか、心の教育、「支援」が必要だという教育言説のなかに「立派」に生きているでしょう。
 しかし、今から思えば、分かれ道はここにあったように私には思えるのです。「荒れた」子どもを立ち直らせる教師の熱心な「かかわり」自体を私は否定しようと言うのではありません。しかしそうした行為は「教育」なのだろうか、と思うのです。「教育」などということばで整理できるよな営みではないにも関わらず、それを「教育」の言語で自己説明をしてきたことに決定的な思想的錯誤があったのではないかと思うのです。
 また、これもよくある話ですが、学校で問題行動を起こした生徒を退学処分(「自主退学」)や停学処分(「謹慎」)などにするかどうかの会議のときに、抱え込んで面倒をみるべきだという議論だけでなく、「突き放す」ほうが「教育的」だという議論などがでてきましょう。「ケア」も「つきはなし」も「教育」の観点から議論されます。解放教育は、こうした教育思想の枠組みから、抜け出す思想的な芽をもっていたと私などは考えてきたのですが、結局、解放教育も「教育言説」から抜けられませんでした。「教育解放研究会」はどうだったのでしょう。
 スユノモでは、荒れた子どもたちを「突き放す」という「教育的行為」で、勉強する気になり規則を守ることができるようになるまでここに来てはいけない、となぜ言ったのでしょうか?
 スユノモの九老の講座では「教育」が実践され、荒れた子どもは「教育」の外部へと追い出されたという構図なのでしょうか? このような整理をしているかぎり、スユノモの実践は私たちの理解から滑り落ちてしまうでしょう。そこにあるのは講師も生徒も「共に生きる行為」の輪のなかにいるだけなのではないでしょうか。たとえば小さな子どもたちが、鬼ごっこなどで遊んでいます。そこに参加したい子どもは「まぜて」といって参加しましょう。鬼ごっこゲームの規則を守らないで遊びを台無しにする子どもは、その輪から排除されましょう。「ちゃんとルールをまもるから入れて」といえばいれるでしょう。そこに「教育」ということばで整理する必要性も必然性もありません。スユノモはそういう意味で「教育」などしていないのです。ですから、日本の一般的ケア教師からみれば、スユノモの「塾」は「反教育」なのです。教育という眼鏡で事態を分類/整理して考えることをしないというのは「反教育」ないし「脱教育」の実践につながるのだと指弾を受けましょう。大人も子どもも、寄り合って「史記」を読んで楽しんでいる場を「教育の場」として定義する磁場から離れて考えるのはじつは思想的な力技が必要なのです。「世界で一つだけの花」的な「弱い思想」がはびこっている状況のなかで、私たちはどのようにしたら「抜けられる」のでしょうか?

 スユノモでシ・ソンさんのしごく単純なそこの運営のしかたを聞いて、私はかつて「解放教育」が抜けようとして抜けられなかった地点に再び立たされたような気になったのでした。

【参考】「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言 1988.5 『教育解放通信』第1号
http://nanbook.net/groups/1bc26/weblog/5d97d/index.html

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「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言

「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言

1988.5 『教育解放通信』第1号

北爪道夫

1 霧のなかの原点<解放教育>
 教師という衣装や、解放教育という帽子やらを取って、ひらたく、生の人間になって、つらつら己のかゆさの所在を考えてみる。どこが痛んでいるのか、どこに疥癬がすくっているのか。確かに<教育>という身体があえいでいる。しかし病巣の所在が見えてこない。教師としての日常の行為が病んだ身体の病巣の一機能に、いつでも回収されてしまう。ふりあげたつもりの手が、<教育>の従順な機能にくり込まれて、敵の手に変身する。ふと気づくと、“有能”な教師という自認あるいは他認のなかで安住している自分がいる。学校を、教育を変えなければ、という原初のエネルギーが自分のどこにあるのかと自問しなければならないところにまで追い込まれている。
“進歩的”教師が戦後一貫していだきつづけてきた教育をめぐる構図は、今もあるだろう。民主教育を守る現場に自分たちが存在し、これに敵対する反動勢力が、たえず民主教育に攻撃をかけてくる、といった構図である。こうした構図は権力を軍事的・政治的にしか見られなくするとともに、“民主教育”の現場や、そこでの自分に対する分析批判視力を弱化させる。
 <解放教育>は味方としてくくってきた“民主教育”の内側に敵を発見した。敵は外側にだけあるのではない、敵は内側だ。敵は自分の行為・意識・思想・感性だ。そういう発見が<解放教育>の出発点にあった。その限りで<解放教育>は、民主教育対国家権力という単純構図にゆさぶりをかける射程をはらんでいた。<解放教育>は権力の包括的戦略の外部たりえていた可能性もあっただろう。「北摂解放教育研究会」が、その外部として戦いのエネルギーを結集しえていた時期があったろう。十数年の活動をふりかえって、そう思う。しかし、今は確実にそうではない。北摂解放研に限らない。<解放教育>が権力の外部たりえなくなってしまった。<解放教育>は闘いのエネルギーの結集点、ベースキャンプたりえなくなってしまった。敵は、<解放教育>の毒を、いまや完全に抜き取り終わっている。言いかえれば、<解放教育>によっては、学校を、教育を、社会を、政治を、変革することはできない、ということである。
この敗北の総括ができていないから、“情勢”や実践の“力量”の責任としてお茶をにごしてすましてきた。ただし、<解放教育>と言っているのは、常識的に流通している---明確に言えば部落解放同盟によりそうところの<解放教育>のことである。私の学んできた解放教育、豊かな遺産をのこしてくれたかっての兵庫の解放教育運動のことではない。
情況を明確に言おう。兵庫の解放教育運動から<学校解体>の思想を抜きとって、教育を社会・政治から隔離した中性的営為としてとらえる戦後教育思想と妥協をはかった<解放教育>を、この学校化社会に定着させようとして、それさえ、ままならなくなったのが、現在の<解放教育>である。兵庫解放研が持っていた、教育そのものを権力装置として感受する感性がここにはない。「民主教育-国家権力」の構図を再生させて、「解放教育-国家権力」としゃべっているにすぎない。
 しかし、そう言い切ることのためらいの中にいる自分もあるだろう。かって進歩的文化人や左翼が、革命ロシアにたいして感じてきた同伴性を、我々は部落解放同盟に対して一定もってきたし、今も各人に程度の差はあれ、存在するだろう。だが、同盟に対する批判を我々が今もつとき、それは内側からの批判にとどまりえるのだろうか。
そればかりではない。<解放教育>に対する我々の同伴性は複雑たらざるをえない。だが、革命的あるいは進歩的教師の軸に<解放教育>がいまだなり得るのか。そういう反省はあっていい。そういう議論こそ立てられるべきである。自立、自前の運動の伝統を、北摂解放研は誇ってきたはずなのだから。
今や、<解放教育>の看板を検証せずに、我々の研究会は持続しえない。

2 “実践主義”を超えて
 教師の現象学とか、教師の文化人類学とかいうのを誰かはじめてくれないかなあと時々思う。奇怪な相貌があらわれてくるに違いないのだ。我々の職場に流通している管理ファシズムとの闘いの武器=理論装置は、いまだゼロにちかい。私の予断と偏見によれば、山本哲士氏などの東京発、反学校・反教育の理論は総じて兵庫の解放教育運動を素通りして理論形成しているかぎり生産性はないだろう。解放教育運動の嫡流たる北摂解放研にこそ、閉塞した教育を解放する理論的・実践的潜勢力があると私は信じている。
 しかし、その潜勢力をひきだすために大きな壁があるだろう。<解放教育>の総括をはばんできた壁だ。それは一人一人の中にある“実践主義”のことだ。
 教師というのは、“好い生徒”の成長した先の姿だろう。これはよく言われていることだ。だから“出来の悪い”子どもが見えないと。しかし、それだけではない。与えられた秩序の中、あるいはその合理的延長の枠の中でしか思考しないし、行動しない。優等生のパターンである。自分の行為の正当性を常に求める。「私」の行動は、どのような教育的意味を持っているのか、ということを常に考える。「私」のよりどころを既成の秩序(“反体制”の理論もそうだ)にもとめる性向が強い。踏みはずしをしない。説明のつかない飛躍をしない。自分の思考・行為の枠から出ようとする冒険心がない。賭の精神がない。 ところで、論証抜きで言えば、「教育が生まれる元の場所」(鶴見俊輔)というのは、生身の人間と生身の人間の相互飛躍の交流の場だろう。人と人との関係、コミュニケーションの成立の場は賭の精神があって成立する。交通不可能性を突破するのは拒絶を超える精神の賭だろう。合理的・論理的説明にいつでも自分を依拠させようとする教師の性向は、教育の場にある危険な賭、自己飛躍への精神の自由を失いがちになる。自分の実践のパターンから抜けられない。精神の自由さ、軽やかさが無い。解放教育派の教師のからだはガチガチじゃないか、それで何が解放だ、と批判して福地幸造をやりこめたのは、つるまき・さちこだったことを思い出す。
解放教育が、いや教育が衰弱の床にあるとき、新たな闘いを組み立てようとするとき、それは危険な“踏みはずし”を何度も重ねなければならないだろう。そのためにはどんな常識・思想・実践にも特権を与えない自由な批評精神が必要なのだ。
 しかし、<解放教育>が自ら総括しえない症状の根は深い。勿論、総括の試みは以前から、各人によってなされてきたろう。しかし共同の総括ができない。衰弱の原因をめぐっての総括が散乱する。ちらばったまま交点が持てない。<解放教育>の理念は健在だという総括もあるだろう。臨終の床なのか、昼寝の余裕なのかもわからない。要するにその判定の場さえ持てない。これこそが衰弱でなくて何であろう。
 だが、こうしたわれわれの決定的弱さは、我々の自立、自前性の証明でもあるのだ。党派性に心身をゆだねている者は、情況とは別に、いつでも元気、いつでも同じ総括なのだ。今日の情況は、教師に限らず、我々が自らの位置をはかれないところにある。こうした今日の混迷の核心に、素手のままさらされているからこその衰弱なのだ。北摂解放研を、解放教育を、総括することはしたがって、今日の困難の中心に切り込むことになるのだ。一人一人が黙って私的に総括するのではなく、共同の総括に至ろうとする意志の共有にこそ総括そのものがある。解放教育は党派性ではない。そうであれば、八方に散っている私的総括を出し合い、火花を交わし合う場が成立するはずだ。そこから解放教育は、その思想的実践的遺産を「教育解放運動」に開示してくれるだろう。

 誇りうる教育実践を重ねてきたということは、現実を見すえ、それを突破するために、常に武器になるとはいえない。経験が手枷足枷になるということがある。習性に引きずられて、「いま・ここ」が見えなくなることがある。教師として自信を持ってくるということは良いことだ、とばかりは言えない。教師としての成熟によって見えなくなることだってある。自信と成熟は疑うことを忘れさせる。疑うということは、自分の規準にもとづいて、他を疑うことではない。自分の規準を疑うことを疑うという。<解放教育>がなぜ総括をなしえないのか。それは共通の自明の前提を「疑う」ことができないからである。
 そうした自明の前提の一つに“実践主義”があるだろう。<解放教育>の総括を阻んできた壁だ。勿論、自らの実践をもって教育を語らなければならないという信仰は、一人解放教育の占有信仰ではない。教師ほど実践を語りたがり、実践を語ることによって教育を語ったと思っている人間も少ない。学校保健研究会の全国大会などでは、たとえば、音楽にあわせて、生徒全員が各自の分担場所を、秩序正しく掃除していくという“実践”が語られる。生徒がサボルこともなく、喜んで楽しく掃除するようになった!“教育実践報告”は効果から組み立てられ、所定の結果を生徒に引き出すための教師の働きかけの磨き上げの理論の反復である。生徒が、教師の働きかけによって、どのように期待する姿に変わっていったかの報告が実践報告である。したがって教師の行為の意味は生徒に現れる効果の意味から規定される。教師のこうした実践主義は安易な操作主義的人間か観を磨きあげてしまう危険性をはらんでいる。
 この教師の“実践”概念が対象としてとらえるのは、個体に制限された個人、あるいはその集合としての集団である。教育実践は個を目指す。したがって、働きかける教師の主体の、働きかけることによる変容、自己形成は、自らの視野に入ってこない。人間を個体あるいはその集合としてとらえる以上、働きかける教師という主体は、いつでも均一でノッペラボウで変容することがない。いいかえれば実践主義は教師の自己形成をマヒさせる。<解放教育>は、こうした教師の不動性・ノッペラボウ性を自己批判するところからはじまったはずではなかったろうか。だが、<解放教育>は教育の実践主義の伝統をまっすぐ受けついだ。
 教師の実践報告は、猥談に似ている。自分の閨房での実践を微細に組み立て、いかに相手を変容させたか、それはどのような行為によってか、なんてしゃべれば、少年少女はすぐ感動してしまう。そういう実践報告の水準以上の教育実践報告は、そんなにあるものではない。教師の実践報告のそうしたイカガワシサをそのものとして非難する気はない。かわいらしいといってもいい。しかし重大なのは、この実践主義は総括を糞づまりにする機能を持つことだ。
教師は“実践”によって教育を、子どもを語るべきだ、という堅い信念は、実践そのものの総括、“実践主義”を支えている思想・意識・感性への内省を理論的に思いっりひっぱってみることにブレーキをかける。失敗の原因は、自己の力量不足であるか、子どもの質であるか、反動の攻撃であるか、とにかく己の実践の枠組みの外にもとめてしまうから、より一層の“実践”へという形の、総括作業をすりぬける総括に流れこんでしまう。
 実践主義は、自らの思想的枠組みに攻撃がむかわないような装置をそなえている。性の深淵なるものがわからないのは、自分の実践のいたらなさのせいであるという総括を引きだしやすいが、性の深淵なるものを総括する方向にむかわないのが性談の常であるように。
 実践主義は、総括されないために教育がセットした権力装置なのだ。近代の教育制度は人間を「社会的諸関係の総体」とか「過程」としてみるのではなく、分類され、規格化され、他と明白にちがう個性として、記述されるべき個人としてとらえ固定する。ある生徒個人についての教師それぞれの見方を集積して、明確な統一的個人像をつくりあげる。そうしなければ統一した指導などできない、という。ある教師の見方がその生徒についての見解の多数意見とちがっていると、それは排除される。常識的に言おう。イヤな教師に向ける顔と、好きな教師に向ける顔はちがう。どちらが本当の○○君か、という特定作業で、個人を確定しようとする。そうして出来あがった個人指導カードなるものは「豚の糞」なのだ。その生徒にとっての、あれこれの固定は、その生徒の過程から生みだされた、いわば使用ずみの糞なのだ。教育制度は「個人」を生産する機能であり、教師の実践主義はそのイデオロギー的表現である「個人」を生みだす実践主義は、教師を「個」にかえす。己の“実践”のいたらなさを反省して、責任とって教師は黙す。これが教師の美学。権力装置としての教育が見えない私小説愛読者たる教師の悲惨の美学だ。

 実践主義は、さらに重大な欠陥を持っている。いま与えられている秩序の内からしか、この実践は成立しない。目の前の子どもと向き合うことからしか教師の実践は出発しえない。それは当然のことだ。しかし、そうした現実的限定を、実践主義は不当に自己拡大して自分を主張する。目の前の現実に対して実行性を直接に持たないと、秩序の側から判断される議論を、その現実性・具体性のなさ、という点で封殺するのだ。
 だがしかし、<実践>というのは、いまある可能態の中でだけ構想できるものでは本当はないのだ。いまだ成らざる、どこにもない可能態を、現実にくくられざるをえない実践のなかで思考するなかでさぐってゆく思想的営為とつながっているときに、それは<実践>とよばれるのだ。疑いのない、素朴実践主義の、理論・思想への抑圧機能を許してはならない。いまある可能態としての秩序を、その不動とも思える必然性をとらえ切ることは、いまだ成らざる可能態の側からの認識がなければできない。そうして、その認識こそが秩序の必然性をゆるがせるのだ。理論的認識の力を忘れてはいけない。ボディブローとしての認識力を教師は創造しなければならない。教師が思想を自己形成できなかったのは、この素朴な実践主義の故なのだろう。
 さらに、この実践主義は教育にまつわる様々な神話の生産にかかわっている。教師の実践主義の回路は「より多くの教育がのぞましい」という支配イデオロギーとつながっている。教師は、ゆきとどいた教育を目指す。子どもに教育的行為が及べば及ぶほどこどもは良くなるという信仰を支えているのは、この教師の実践主義にある。反学校・反教育派の学者が、いくらこの支配イデオロギーを批判しても、教師にとどかないのは、この実践信仰があるからだろう。
実践主義は、子どものためになにを「する」かを問う。子どもを放ったらかしにしている、とは教師批判の殺し文句である。教育を善行と思わずには教師たりえない教師の善良性は、教育を思想的に追いつめる努力をサボタージュする心理的根源になっている。不登校は、この教師性の根幹に逆らう。
 <解放教育>も、こうした教育の神話に囲まれてきた。その神話の構造を、教師の日常行為にそくしてとり出してみなければならない。兵庫解放研の分裂のときに、福地幸造が、「子どもを守り切るのだ」と主張した者たちに向けた批判を思い出す。教師は自らの行為の生み出す神話を自覚化しなければならない。
教育の神話に対する疑いが教師の中に芽生えてこないのはなぜか?それは神話にもリアリティがあるからだ。神話の中でも人は生き死にできるからだ。神話の中にも深い人生がセットされうるからだ。ファッショ的生徒指導にさらされて卒業した生徒が、何年後かに学校を訪れる。「やあ~あの頃は先生に反発したけれど、今から考えてみれば、あの時の指導がなかったら、自分はダメになっていたろうなあ~」という神話のことばを語る。それを聞いて、教師は「やあいろいろ批判するやつがいるけれども、自分の指導の正しさを見ろ、生徒の声を聞け」と自らの教育を全面肯定する。神話を語ってくれる少数の生徒を含めて、どれほどの抑圧を生産してきたかということは、教師には見えない。神話は教育の両義性など押しつぶし、いっきょに実践主義の回路と結んで、教師のダイゴ味!をつくりだす。
教師の実践主義は教育神話の根源を支え、教師の発想を規定し限界づけ、総括を糞づまりにしてきた。教師は自己否定をはらんだ教育の両義性を徹底的に見つめる思想的強さに欠けていた。そうした教師のあり様を生産する条件を明らかにし、我々のまとってきた、この実践主義を超えていかなければならない。

3.「教育解放研究会」の結成へ向けて
 北摂解放研は解放教育を目指してきた。解放教育とは何か。それは既成の学校教育の部分として安定しうるものではない。秩序としての学校教育を解体させる「疑い」の棘を持っていたろう。学校・教育という制度への不断の問いかえしとしてあったはずだ。福地幸造は「<学校解体>という思想的営為」といっていた。学生運動のスローガンではない。学校現場の内側にいながら、こうしたラジカルな問題設定を持ちつづけていた。このことを我々は忘れていないか。
 いつのまにか、学校教育の部分として<解放教育>がしくまれてしまっている。そのことを理論的に明確にしつつ対応してきたろうか。理論的総括の可能性は北摂解放研に多くあっただろうと思う。しかし、上述のような実践主義に足をとられて、理論を語ることのウシロメタサの教師感覚の故に、十分に展開することができなかった、ということも真実だろう。この総括の不徹底性に、北摂解放研のつまずきの一因があった。
 現実がはるか理論の先を走っている。古色蒼然たる「教育学」その他の体制的理論の骸骨に感覚を縛られている教師の現状がある。我々は「教育」といわれる場で何をしているのか。我々を支配している教育イデオロギーの機能は何か。教師が子どもに語りかける、その身体、言語はいかなる磁場を構成するのか。今日の教育の自己肥大は、いかなる思想的起源、経済的・社会的条件によってもたらされたのか。等々の基本的問題の解明の中で「教育ファッショ」と対決できうるのだろう。<解放教育>を同化吸収解体した敵の姿はそのなかで見えてくるだろう。
 このような作業は、現代の教育の内部の岩に鎖づけられている我々が、自身の身体・意識・感覚・思想の自己検証の中で行わなければならない。そのための理論装置は、できあがった形ではどこにもありはしない。あちこちに散在してある武器をひろい集めて構築創造する作業が必要なのだ。あらゆる既成観念をカッコでくくり、現実に耳をそばだてて、新たな視線を共同で構築しなければならない。新たな実践の地平は、この日常的教育体制の批判的理論化の共同作業のなかで形成されるだろう。
 我々は<解放教育>ばかりでなく、戦後教育あるいは教育そのものを、北摂解放研の活動の豊かな遺産を武器にひろいつつ、今日の教育状況に対決する思想的営為をつづけている学者・思想家に学びながら、全面的に問い返す作業から再出発しなければならない。
 「解放教育」という看板はすでに現実によって無効にされてしまっている。だが解放教育は<教育>そのものを解体構築する射程を持っている。私はそれを確信している。我々は<教育>の批判理論の構築にむけて<解放教育>を吸収囲い込んだ<教育>の枠組みの解体・解放にむけて出発しなければならない。
福地幸造が、教師の世界を「思想的砂漠地帯」と一貫してなげいてきた、その福地の批判に、我々は返礼を返さなければならない。思想の砂漠地帯から抜け出すための、共同の作業が必要とされている。これこそが解放教育運動の嫡流としての北摂解放教育研究会の転生への正道であるだろう。

4.教育解放研究会の性格
 以上の観点をふまえて、「教育解放研究会」の性格をまとめてみると、だいたい以下のようになるだろうと思います。勿論、これは出発点での性格であって先のことまで規定しようというのではありません。
1) 教師による「教育」「学校」の批判的対象化作業を共同で行う場とする。
2) 現在の社会・教育の総体がファッショ的情況の中にあるとの認識に立ち、こうした抑圧的教育体制から、子供・教師を解放する道筋を探究する
3) 教師の日常的行為・意識を自覚的に対象化し、教師の囲われている実践・理論の枠組みを明確にし、現代の学校社会を超える理論と実践の構築を目ざす場とする。
4) 北摂解放研の活動の中で展開されてきた解放教育の豊かな遺産を継承し、解放教育が持ってきた近代学校への批判と実践を理論実践装置として組み上げる場とする。
5) 教師の教育実践を支えている教育思想との対決は、以上の課題にとって不可欠の作業である。よって、近代の教育諸思想、元だ日本の教育諸潮流およびそれらを支えている思想を、我々の感性・日常行為にひきつけて、批判検討する場とする必要がある。
6) そのためには、教育哲学、現代思想などの研究者との積極的交流をはかり、学ぶ場としなければならない。



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近代文学作品と〈学校〉(5)丑松の教室

(5)丑松の教室 2008-08-07

1 学校批判小説としての『破戒』

 島崎藤村は1906(明治39)年『破戒』を自費出版します。藤村34歳のときです。28歳の時に小諸義塾の教師と
なった藤村は、北国の人びとの生活をつぶさに観察し始めます。後に『千曲川のスケッチ』(1912)となる観察は『破戒』の中でも活かされています。『破戒』には小学校教師・瀬川丑松の学校の様子、生徒・教員も描かれています。小諸義塾のときの経験が生きていると考えられますが、『千曲川のスケッチ』などには学校や教員への批判は見受けられませんが、『破戒』には学校批判が強烈にでています。
 『破戒』が部落問題を主題化した小説として、発表当時から様々な批判や解釈が起きてきましたが、『破戒』のなかの学校批判をそれとして取り上げる議論はあまりなかったようです。丑松が部落民であることを告白する場面が教室であるにも関わらず、です。丑松が教室で土下座しながら穢多であることを隠していたと、高等四年の受け持ちの生徒たちにわびるのです。学校から放逐されて丑松はアメリカのテキサスに「逃げた」ということで、差別に負けて逃げるような「丑松」になってはいけない、という風に「教育」材料に取り上げられてきました。差別小説だ、というので絶版にされ(昭和4年)たり、「穢多」を「部落民」にかきかえるなど、藤村は改版を余儀なくされますが、戦後になって解説注釈つきで、初版に戻されます。『破戒』は近代的自我の葛藤・苦悩をえがいたものであって、社会問題、部落差別を主題にしたのではない、という議論と社会的プロテストとして部落差別を取り上げたのだという議論が対立してきました。柴田道子は「藤村は彼の主題自我の葛藤を効果的にするために「部落民」を素材にしたのではないか。……彼は立場の相違を無視して、傲慢にも部落民に一般民の自我をおしつけ「社会」(よのなか)と対立させた」(「『破戒』をめぐって」『ピエタロ』20号 昭和48年)と、批判し、部落解放に敵対するものとして断罪していました。部落解放同盟などの運動体が、差別につながるかも知れない小説に注文をつけるのは、小説の(非)教育的=政治的効果を考えてのことでしょう。この点では、プロレタリア文学運動に要請された観点と同じ視線で文学作品を見ていたのでした。
 ところが、『破戒』は、すぐれて学校批判を含んだ小説だったということは注視されてきていなかったようです。具体的に差別する者として登場するのは校長や郡視学や教員なのです。教育界から『破戒』にたいして、モデルになった飯山の寺の関係者が藤村に抗議しています。この抗議の仕方が差別発言そのもので、当時の飯山での差別がいかにきつかったか、丑松は土下座でもしなかったらリンチになったのではないか、と言う人もいます。藤村への抗議者は、「穢多を下宿などさせてない」とか、猪子蓮太郎のモデルとされる「大江磯吉が飯山の寺に講演に来たときには穢多だとわかったので追い出し、畳を換えて塩をまいた」などと「穢多」と飯山や寺は関わりないのだぞという言い方をしているのです。ところが、差別者として教育関係者を描いているのは不当であるというような抗議はなかったようですから、『破戒』のえがく学校での差別は「ありうること」として受け入れられたのでしょう。
 生徒の一人に仙太という部落の子がいます。テニスの相方に誰もなろうとしないので、丑松が仙太と組んで試合をします。ほかの生徒も校長も、丑松と仙太の組が負けるたのを大喜びします。天長節の儀式の後で生徒たちがうれしがってはね回るのと、壁により掛かって寂しそうにしている仙太を対比させます。
 校長は、こんな風に描かれます。

 校長は応接室に居た。斯(この)人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
 斯(この)校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々(にち/\)の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。

 この校長が、甥の教員文平とはかって、丑松の追い落としの種を探るという設定になっています。丑松を追い落としてから、この校長は、このことの教育的意味をかたるのです。「校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素(ふだん)の行為(おこなひ)に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合である」と。
 当時の小学校教員たちは師範学校を出ても10年間は学校教員を続ける義務がありました。丑松もそれにしばられ、没落士族の教員敬之進は恩給まで数ヶ月のところで教員をやめていきます。敬之進の娘の志保は蓮華寺に奉公に出され、息子の省吾は丑松の受け持ちです。この敬之進の家族の惨めな貧しい生活丹念に書き込まれています。敬之進は酒におぼれながら丑松に語ります。

 まあ君だから斯様(こん)なことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しまひ)には教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たとへ)僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そん)な真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むちう)たれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。

 藤村が、教育や学校を批判するために、こうした記述をしているとはいえません。小諸に就職した藤村は、あらゆるものを観察し記述していこうと決意しています。農夫たちの生活をあぜ道にすわって暗くなるまで観察しているばかりでなく、農業を自らもやり始めます。被差別部落の頭に話を聞きに行ったりまします。『破戒』には牧夫である丑松の父を死に追いやった牛の解体場面が忠実に描かれていますが、『千曲川のスケッチ』には藤村が牛肉売りの男に案内を頼んで屠牛場を見に行ったことが書かれています。牧夫の生活も、藤村が山小屋まで案内してもらって話を聞いていることが『千曲川のスケッチ』にでています。藤村は探求者であり、観察者なのです。ですから、学校や教育のありのままを描こうとしただけなのだと思いますが、それ故に鋭い学校批判になっているのです。

2 部落民宣言と丑松の「告白」

 手元に『兵庫解放教育研究第二回大会報告集』(1975年)というのがあります。そこに県立尼崎工業高等学校の吉岡光政の報告「先生はまだ担任する資格がない」がのっています。一部を引用してみます。

 二年生の五月だった。歓迎遠足の欠席者の点検として始まったHRで、Mが居すわる。
 「オマエらそんなことで社会に出て生きていけるんか。自分さえよければ、ええ、他のヤツなんかと思うて生きていくんか!」
 「オマエらみたいなボンボン育ちにはわからんやろな。自分の意見もようもたんボンボンが社会で通用し、村育ちのガキで自分の意見もったヤツが差別される。イヤな世の中や」
 彼はおいたちに触れながらクラスに迫っていく。「オレはそんな苦労してないのでどう言うてええかわからん」といってつぶされたり、Mのことどう思うか、という流れになったりする。
 「オレのことを討議してくれとは言うてない。オレはオレで生きていく。オマエら裸にならんかい」Mは一歩も引きさがらぬ。
 柔道部のマネージャーをみごとに果したJは、父が過労で視力を失い、かつてどん底の生活を送ったこと、早く卒業して家計を助けたいと語る。
 体育委員としてきばってきたDは、父が小児マヒ後遺症で、金さえあればきっちり手術できたはずなのに、金がなく切断し義足であるといったまま泣き崩れる。
 沖縄出身のGは、三年前「本土」にきたこと、父は学歴がなく就職もむずかしかったこと、(都会)の人間はつめたいことを語り、お母さんは学校へ行ってなくて字知らん、といったまま机に顔を伏せる。
 教室の中は鳴咽が響き合う。語ろうとして語り切れず、静かな衝撃波が伝わる中で、あるさわやかさがひろがる。
 「オレの住んでるところは部落や」とT夫が言ったまま泣いてしまう。
 「なんで部落のもんが泣かんならんね!」Mは声を張りあげる。身内を励ますことで自らを励まし、撃つ。

 Mは被差別部落出身の父と離婚した母のことを書いた作文を書き、担任はHRのまえにそれを配っている。担任は部落出身生徒には〈部落奨学金〉の受給の話を、在日朝鮮人生徒には〈朝鮮奨学会〉の奨学金の受給と本名について話している。だから、担任との関係では、すでに半ば強制的に部落出身生徒や在日朝鮮人生徒は、「秘密」をなくされていることになります。そうした下準備のあとで、HRで「部落民宣言」や在日朝鮮人の名乗りが行われていたのです。解放教育の中での「宣言」は、いわば主体の回復宣言として、差別と戦う宣言として肯定的評価をされてきました。丑松の「告白(うちあけ)」は「秘密」の自己開示であるにもかかわらず、差別に負けた敗北の姿と理解されてきました。はたしてそういう線引きができるのでしょうか。
 丑松の「告白」はなぜ「教室」だったのでしょうか。猪子蓮太郎に何回も「告白」しようとして、その機会をねらいながら、それが果たせないまま、猪子蓮太郎はリンチにあって死んでしまいます。同僚で友人の銀之助は、はなから丑松を部落民だとは思っていないのです。告白を決意した丑松は受け持ちの生徒たちのまえでの告白を選択しています。それが自然であるような組み立てを藤村はしています。

〈丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣(や)りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履(は)く麻裏(あさうら)を造(つく)つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯(こ)の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。』
 手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
『皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。』と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継(つ)いだ。
『これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯(か)う思出して頂きたいのです。私が今斯(か)ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。』
 斯(か)う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済(す)まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
 と斯う添加(つけた)して言つた。
 丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。

 このあと生徒たちは丑松がやめないですむように校長のところにお願いに行きます。校長が「彼様(あゝ)いふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。」とか対応しながら「大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動」と子どもたちを批判して追い返す。「諸君は勉強が第一です」と。丑松が旅立つときに、生徒たちは丑松を見送ろうとするが校長は「不可」という。銀之助は校長たちを批判するが、丑松は生徒たちを帰すように言う。藤村は学校制度やそれを支えている校長や郡視学などの人びとを批判的に描いてきたのですが、「教室」の生徒たちには希望の視線を向けているのです。丑松の「告白」が「教室」で行われたのはそうした藤村の希望を語っていましょう。
 解放研の生徒たちの部落民宣言は「勝利」であって、丑松の「告白」は敗北である、という言い方は成り立たないでしょう。隠してきた、隠すべきこと、社会に知れたら自分の不利になること、そういう「秘密」を、自ら開示するという点では、どちらも同じです。隠すことで社会のそうした抑圧を内面化してしまうことから自己を解放する行為として「告白」や「宣言」はあったのです。よくいわれるように「テキサス」に丑松は「逃げた」のではないのです。当時、社会主義者の片山潜でさえアメリカ移住の計画をしていたし、西光万吉なども南方に移住しようとマレー語を勉強したりしていたからというより、『破戒』に描かれる丑松の「告白」後の晴れやかさを読めば自明であるハズなのです。
 しかし、この教室での「告白=宣言」こそ、近代の「主体」形成の場であり、敗北者の逆転のダイナミズムが出現する舞台だったのです。柄谷行人は言います。

 近代的な「主体」ははじめからあるのではなく、一つの転倒として出現したのだ。十九世紀西洋の近代思想をどんなにとりいれても、このような「主体」は出てこない。平板な啓蒙主義にはこのような転倒が欠けている。今日の眼からみて「近代文学」とみえるものが例外なしにキリスト教を媒介していることは、影響といったような問題ではない。そこには「精神的革命」があったのであり、しかもそれは「時代の陰」すなわちルサンチマンにみちた陰湿な心性から出てきたものだ。しかも、「愛」が語られたのは、まさに彼らからなのである。
 彼らは「告白」をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもうひとつの権力意志だからである。告白はけっして改悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。(中略)
 私は何も隠していない、ここには「真実」がある……告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している、私はとるに足らない人間だが少なくとも「真実」を語った、ということを主張している。(中略)告白という制度を支えるのは、このような権力意志である。私はどんな観念も思想も主張しない、たんに、ものを書くのだと、今日の作家はいう。だが、それこそ「告白」というものに付随する転倒なのである。告白という制度は、外的な権力からきたものではなく、逆にそれに対立して出てきたのだ。だからこそ、この制度は制度として否定されることはありえない。また、今日の作家が狭義の告白を斥けたとしても、「文学」そのものにそれがある。(『日本近代文学の起源』1980 増補改訂版 定本柄谷行人集1 p.116)

 被差別部落出身者が「部落民宣言」で、これまで弱さや秘密としてきたことを逆手にとって自己の「主体」を獲得し、被差別の仲間たちに、「裸になれ」と、このような「主体」の確立へと誘う権力に成長していく。こうした闘い方は、近代初期の支配権力への政治的抵抗の挫折の後で、ルサンチマンから出たにしろ近代文学という「文化様式」を日本に確立した「告白」小説(私小説)という伝統の様式の系譜上にあったのです。支配権力によって人間としての尊厳をつぶされていった人びとが依拠する最後の抵抗拠点が「告白=宣言」であったのでした。そのいみで解放運動は、日本近代文学運動の直系でさえあったのでした。
 ところで、一個人の個人的な生い立ちや秘密の「告白」行為が、単なる個人的で個別の私事ではなく、「公」の場で普遍的な意味を持つのだという認識がないかぎり「告白」は愚痴やいいわけと峻別できなくなってしまいましょう。私小説が日本の特殊な表現形式として市民権を得てきた経緯を平野謙は次のように説明します。

大正8・9年までに出そろった文壇交友録小説という一種の私小説の源流としては、やはり白樺派の自己小説──自己を中心として、その肉親、家族、恋愛、交友などを無飾に描いていった武者小路の『お目出たき人』『世間知らず』を先蹤とするあの天衣無縫の自己表白の文学まで遡らなければならぬ。個の伸張、我の発揚がそのまま人類の意志にかようと思考した一群の大胆な自己表白者の文学こそ、また私小説の一濫觴にほかならない。そこにあっては、人性そのものに根ざしているかのような(近松)秋江流の痴愚愛執の妄念とはうらはらに、普遍につらなる人類の善意を信じて疑わぬエリート意識がその真率な自己表白を支えていた。〉(「私小説の二律背反」昭和26年 『芸術と実生活』所収)

 被差別の状況に置かれていた生徒たちが、それぞれの被差別状況への抗議をこめて「告白」することには社会的差別へのプロテストの意義があった。しかし、とりわけて被差別状況でない者でも己を語ることに「普遍的意義」がある、としなければ実は解放教育のなかでのHRは成立しなかった。個と普遍を直結する伝統は、実は日本の近代文学の私小説的伝統にあったわけです。
 もっとも、これは昔のことではありません。俳優やタレントの個人的なスキャンダルともいえないような些事をテレビなどのマスコミがおいかけ、それを受容する風土は、私小説の風土と同じものであるし、「世界に一つだけの花」という思考様式も同根でしょう。
 丑松の告白も、部落民宣言も「教室」で展開されたということは、示唆的です。近代文学がしつらえた「愛」の「告白」が、プライベートな空間を切り開き、近代の政治が、公共空間を開拓してきたのだとすれば、学校の「教室」は「真実」や「真理」、いいかえれば前近代では隠されていた秘密が開示される「親密空間」として、「私」と「公」を接続する空間として登場してきていたのだ、ということを意味していないでしょうか。教室で「教えられる」真理や真実を媒介に、「立身出世」の暁には政治支配権力として変身しうるというのが、実は近代教育制度の権力意志だったのではないでしょうか。教育者は間接的権力意志の権化として無意識的に定義してきたとしても不思議ではありません。『破戒』の描く校長や郡視学たちの姿ばかりではなく、たとえば東京帝国大学教授をすぐ辞めてしまった夏目漱石は小説のあちこちで教育者を皮肉っています。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の髭の手入れは「教育者がいたずらに生徒の本性をためて、ぼくの手がらを見たまえと誇るようなものでごうも非難すべき理由はない」と猫に皮肉らせています。『坊ちゃん』全編は、倉石一郎氏が明らかにしたように(「坊っちゃんの悲劇性」『教育の境界』所収)教育という界の「他者」による枠取りであったのでした。すでにして「文学」的相貌をなしていた教育界に、「近代文学」のありように疑問を持っていた漱石はその教育界にことよせて、その異和感を「写生」するしかなかったわけです。

3 学校教育の「ふるさと」

以前に坂口安吾の「文学のふるさと」(現代文學 第4巻第6号 1941年8月号)をとりあげて、安吾が「突き放される」経験のなかに文学のふるさとをみたことを取り上げました。(教室の中の近代(5)『風と光と二十の私と』
それにならって考えてみましょう。
 丑松が告白した「教室」、部落民宣言がおこなわれた「教室」。そこはいってみれば近代教育の「ふるさと」といえるかもしれません。石川啄木がフランス革命のアジ演説をし、丑松が「告白」の場を提供した「教室」。斎藤喜博が、汚い政治と縁を切った、文化遺産である「真理」をはさんで教師と生徒が高めあうところの「教室」。多くの教員たちが教室で自分たちの夢をめざして「実践」に励んできた「教室」。そこは、カリキュラムに基づいて「真理」が予定どおり展開されるところではなく、「突き放される」経験をふんだんに含んだ場であったのではないでしょうか。しかし、そういう「教室」はいまや消え去ろうとしているのではないでしょうか。「告白」や「宣言」はおろか、冗談やユーモアがなくなっていく状況があるのではないでしょうか。
 学校経験は明治以降、ほとんどすべての人たちの人生経験を構成してきました。作家たちも例外ではありませんから、自らの学校経験を作品の中に書き込んできました。「教室」が「主体」形成の場所としてあったのだとすれば、「教室」が作品の中に登場する度合いは高かったのではないでしょうか。だとすれば、「教室」が作品のなかで描かれなくなる現象があるとすれば、私たちは学校教育の「主体」形成力の衰退を見なければならないことになりましょう。
 小説に学校があまり登場しなくなってはいても、ドラマや漫画には学校や教師は相変わらずたくさん登場するということでした。山田浩之『マンガが語る教師像』(2004 昭和堂)にはたくさんの学校マンガが紹介され、そこに登場する教師像が分析されています。そこでは部活動を指導する教師とか恋愛対象としての教師などが多く登場しますが、「教室」が主な舞台になるマンガは少ないようです。学校や教室はそこでは単なる舞台装置にすぎないような気がします。学校はそれこそ子どもたちが「生きる」「すまう」場所として提供されているのであって、学校や教室がそれ固有の機能によって登場するのではないといえそうです。「教室」がわずかに登場する小説、山田詠美『僕は勉強ができない』の冒頭に「教室」でのHR委員の選挙場面が出てきますが、気の抜けたビールのような風景であるのは、私の主観のせいでしょうか。マンガに背景としての教室が描かれるのと同じでしょう。学園モノであっても、現実に起きている学校や教育をめぐる深刻な状況に切り込んでいるモノがあるのかもしれませんが、特異な事件や○○問題として取り上げるとしても、そのなかで日常の「教室」をリアルに描いたような作品に行き当たるような気がしません。漱石や藤村の時代に学校が持っていた文化的位置、文字どおり近代的「主体」形成の装置としての学校の社会的機能がいつのまにか脱落していったのではないのだろうか、と推測するからです。
 たとえば、下記のような文は、けっして作家たちによって今どき書かれることはないでしょう。

 学校の日課が終った頃、私はこの年老いた学士の教室の側を通った。戸口に立って眺めると、学士も授業を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒等に説明していた。机の上には、大理石の屑(くず)、塩酸の壜(びん)、コップ、玻璃管(ガラスくだ)などが置いてあった。蝋燭(ろうそく)の火も燃えていた。学士は、手にしたコップをすこし傾(かし)げて見せた。炭素はその玻璃板の蓋(ふた)の間から流れた。蝋燭の火は水を注ぎかけられたように消えた。
 無邪気な学生等は学士の机の周囲(まわり)に集って、口を開いたり、眼を円(まる)くしたりして眺めていた。微笑(ほほえ)むもの、腕組するもの、頬杖(ほおづえ)突くもの、種々雑多の様子をしていた。そのコップの中へ鳥か鼠(ねずみ)を入れると直(すぐ)に死ぬと聞いて、生徒の一人がすっくと立上った。
「先生、虫じゃいけませんか」
「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」
 問をかけた生徒は、つと教室を離れたかと思うと、やがて彼の姿が窓の外の桃の樹の側にあらわれた。
「アア、虫を取りに行った」
 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は茂った桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく何か捕(つかま)えて戻って来た。それを学士にすすめた。
「蜂(はち)ですか」と学士は気味悪そうに言った。
「ア、怒ってる――螫(さ)すぞ螫すぞ」
 口々に言い騒いでいる生徒の前で、学士は身を反(そ)らして、螫されまいとする様子をした。その蜂をコップの中へ入れた時は、生徒等は意味もなく笑った。「死んだ、死んだ」と言うものもあれば、「弱い奴」というものもある。蜂は真理を証するかのように、コップの中でグルグル廻って、身を悶(もだ)えて、死んだ。
「最早(もう)マイりましたかネ」
 と学士も笑った。(島崎藤村『千曲川のスケッチ』)

 この教室ではすでに授業は終わっているのです。生徒たちの授業での驚きとその後の行動は、指導案の外部でしょう。予想外の応答、他者との遭遇があるのが「教室」でしょう。部落民宣言の教室も、丑松の教室での生徒たちへの別れの告白も、いってみれば指導案にとっては全くの外部です。しかし、そうした外部を「教室」は包摂してきたのです。斎藤喜博も林竹二も「教室」を外部に閉じられたものとしてイメージしたかもしれませんが、彼らの授業は外部を予期に反して突然引き入れ、それとぶつかり思考するものだったように思います。教師が「報告」する授業実践と、現象している教室の事態とはまた別物でもあるのです。ところが、教師の実践報告は、指導案を意識的無意識的に参照し、あるいはすぐれた実践をコピーすることで、言ってみれば「教室」が主体産出のふるさととして機能してきた「近代のふるさと」を忘れていったのです。それは教師一個の責任だけでは勿論なく、「近代のふるさと」「教育のふるさと」を消していく「教育改革」行政によるところが大きかったのではないでしょうか。

参考文献
平野謙『芸術と実生活』(新潮社 1964)
瀬沼茂樹『評伝 島崎藤村』(筑摩書房 1981)
柄谷行人『坂口安吾と中上健次』(講談社 2006)
東栄蔵『続「破戒」の評価と部落問題』(明治図書 1981)

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近代文学作品と〈学校〉(4)消える教室

(4)消える教室 2008-06-19

 日露戦争のさなか、「遼陽の占領」の「万歳! 日本帝国万歳」の提灯行列の声を聞きながら、林清三(『田舎教師』の主人公の小学校教師)は肺病で死んでいきますが、物語は、彼の教え子で師範学校に行って教員になった女性が彼の墓の前で泣いているというところで終わっています。『田舎教師』では、ほとんど教室での清三の姿は登場せずに、貧しい惨めな小学校教員の生活が描かれています。ですから、この終わり方は、いささかとってつけたようなのですが、教室での教師─生徒関係が、現実の暗い生活とは別の物であること、学校を小説の舞台にするとき、そこに希望を見いだすという意識があることを示しています。島崎藤村の『破戒』は強烈な学校批判を内包しているといいましたが、「教室」の生徒と教員の関係はそれとは別なのです。丑松をやめさせないでくれ、と丑松の生徒たちは校長に嘆願に行きます。このときの校長の対応は次のように描かれます。

 其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動でせう。』と言はれて、級長は何か弁解(いひわけ)を為ようとしたが、軈て涙ぐんで黙つて了つた。

 丑松のつとめる小学校のいわゆる「モデル」は飯山尋常小学校で、下宿先の蓮華寺は飯山の真宗寺だろうというので、それをあしざまに書いている、とりわけ「穢多」の教員がいたなどと書いたのはけしからんというので、飯山では、藤村の作品の舞台であることなど忘れてしまいたいようですが、こういう生徒を描いているではないか、などとは考えなかったんですね。それはともかく、ここでも教師─生徒関係の成立する教室は、いわば批判の対象ではないのです。むしろ、そこにこそ希望を見いだしているのです。丑松が被差別部落の出身であることを「教室」で生徒たちに告白したという設定の意味はそこにありましょう(解放教育のなかで、部落民宣言は必ず「教室」で行われたことに意味ともつながるのでしょう)。高等四年の級長は、校長に次のように言っているのです。

『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。

 いわば教室は近代の実験場として、希望を語りうる場所として、さらにはその外の前近代の社会を批判しうる場所としてイメージされているのではないでしょうか。「学校」が立身出世の必須の場所として認知され、〈地〉になりかけている『ああ玉杯に花うけて』(1927)でも、街と権力者に対して校長・教員と生徒が一体になって対抗する姿が描かれています。もっともここでは、漱石や藤村にあった学校批判は消失しています。
 林清三が死んだ年、日露戦争が終わった年に、大阪の小学校教員軽部の息子として豹一は生まれたという設定になっているのが、織田作之助の『青春の逆説』(1941)です。軽部は、こんな風に描かれます。

 お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。

といったふうに、卑小な脇役としてえがかれ、豹一は、母の内職で中学に行きますが、その中学では映画を見に行ったというので停学処分になります。もはや、あの「教室」はなくなっています。

 一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。

 三高にはいった主人公は、この学校のエリート主義にあわずに退学してしまいます(織田作之助も三高を退学していますが)。『青春の逆説』では、学校や先生や学生は、さまざまな風俗の一つとして描かれているに過ぎません。青春の希望や不安や期待がとどまるような場所としてではなく、街の風俗の一つなのです。母のお君が再婚した相手の高利貸は、豹一の学資をだしたりしません。妻や息子から家賃をとる吝嗇漢にとって学校はなんの意味もないところです。『青春の逆説』が批判するのは旧制中学や高校の生徒たちの鼻持ちならないエリート主義であって、それをも一つの不細工な風俗として描き出すことに意味があるので、学校批判によってなにか別の希望を見いだそうとするわけではありません。女学生紀代子とデートするときでも豹一は、貧しい生活のなかの母を考えてしまいます。

しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)

 近代文学は、延々と「家」や「家族」について書き続けてきたし、今でも書き続けています。恋愛小説はもちろん推理小説でも、母─子、あるいは父─子、夫─妻、恋人どうしなど、親密な関係を巡って書かれる作品は、飽きることを知りません。いわばずーっと主題であり続けています。ところが学校はそうではありません。家族はその解体が言われ続けてきましたが、作品は書かれ続け、学校は、時にその解体が話題になりはしても、いまや学校の改革は話題になっても解体などという人はありません。なのにフクションの世界から「学校」は影が薄くなっているような気がします。あの「教室」は作家たちの中から、また私たちの中から、消えてしまったのでしょうか? いや、そんなことはない、熱心な教師たちは、その「教室」のために生きているのだ、という声も聞こえてきます。それはそうだろうと思います。問題は、その場所がフクションの世界から消えていくことのほうにありましょう。新しい時代の息吹を創作家たちはその鋭い感性で、小説の主題にしてきました。だとすれば、作品から「教室」が消えていくのは、どんな世界の出現の予兆なのでしょうか?

写真は織田作之助

http://www.odasaku.com/oda-room.html より

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金時鐘の詩と在日朝鮮人教育

『むくげ』1986年3月〜6月 
北爪道夫


1 起点

 解放教育とは何であったか、と正当にも自問しはじめたとき、本当は"総括"といった言葉からはみだす希求が根ざしているのかもしれない。たとえば、組合運動のなかでいうところの総括が、それまで展開してきた運動の言語体系の整備・補完とはなっても、その言語体系の問い直しとはならないのに照してみればわかる。反問の言語は自らの実践を支えてきた言語の解体線上を歩まなければならない必然をかかえてしまう。正当化に向う“総括”の志向性から遠くはなれようとすると、希求は、支える場所のないところへ出てしまう。
 言うまでもなく、実践にとってこれは危険な反問である。しかし、実践主義者の"総括"の思想的頽廃につきあいつづけるわけにもゆかない。
 教育を論じようとする者は、いつでも罠にかけられる。××教育論は、××とは何か、という思想上の問いから解除されてしまう。女子教育論を展開する者が、女とは何か、と考える必要はない。教師の視点から論ずれば事足りるという罠がある。教師は教育論の枠でしか思考しないという習性をかかえている。この思想的欠落を教師のプロ意識と言いかえてもよい。
 解放教育は、本来こうした欠落と切れたところから出発していた。兵庫解放研の思想的突出性は近代学校の枠組みの外で思考しているところにある。学校教育の枠組みに解放教育を囲い込んでしまう教育論に足をすくわれつづけてきた、"解放教育論"はそろそろ精算されてもいい筈だ。
 在日朝鮮人教育論は、教育論の中に囲い込んではならない。在日朝鮮人に向き合うことと、在日朝鮮人生徒に向きあうこととを混同し、前者の思想的課題をスリヌケルことは許されない。教育論の構造が、いかに私たちを思想的怠慢者にしたてあげていることか。そうして教育論はそのことに気付かせない装置をもそなえているのだ。「生徒の意識は今、こんなところだ。だからこのような指導が適切だ」「民族的なものが自明な一世とそうでない二、三世以降とはちがう。二世、三世の民族教育は云々」教育を生活世界と切断する発想から、我が解放教育は切れているのだろうか。
 在日朝鮮人教育を考えるとき、在日朝鮮人生徒を目の前にして、教師が、さあどう指導すべきかというところから出発すべきではない。以下の小論が金時鐘論としてはじまるのは、私にとっては方法的必然である。金時鐘の言葉は1から10まで教育論の矮小化構造から無縁なところで自立している。
 金時鐘が湊川高校の教師にまねかれたのは1973年の夏のことであった。兵庫の解放教育運動のただ中で、彼がどのように発言してきたか、兵庫解放研の思想的地平が、金時鐘を見いだし、金時鐘の在日朝鮮人としての戦後の思想的営為が、解放教育と出合った地点がここにはあった。金時鐘は、解放教育の高揚期にあった1977年に次のように発言している。

 少量のわが子弟たちが日本の解放教育を志向する教師集団の中に、幸いにもくるまれているということを、わたしは深く受け止めざるをえないのです。ですが、朝鮮人たらしめるその〈朝鮮〉の所在というものは、なかなかもって、定かなものではありません。行政権力との厳しい対峙の中で、解放教育を志向する学校をあげての教育実践のなかにあってさえ、〈朝鮮〉の命運にかかわりうる在日朝鮮人生徒像というのは、まだまだ論議の対象ではないのです。それがたとえ、本名を名のらすという、未だかつてない教育実践が朝鮮人を朝鮮人にたちかえらすためにくりひろげられているとしても、このこと自体が果して朝鮮人たらしめることなのか、ということには、まだまだ論をまたなくてはならない問題がありそうです。(「民族教育への一私見」『クレメンタインの歌』1977年所収)

 解放教育を風俗小説化した潮流のなかには、こういう反問は起こりようがない。〈朝鮮〉〈在日朝鮮人生徒〉〈本名を名のらせる実践〉というのは"解放教育"を教育の地平でとらえたものにとって、自明の前提として通りすぎかねないものであった。だからこそ、金時鐘は問いかえしているのだ。この反問のあり様こそは、兵庫解放研の思想的水準に対応していたろう。
 しかし、証拠は持ち合わせてはいないが、受けあってもよいことがある。金時鐘は、教育現場に機能している教育言語の秩序への異和を、たとえそこが湊川高校であろうと、強烈に感じたであろうし、その異和を、教育言語の方へなげかえす営為をつづけてきたろう、ということである。
 金時鐘を論ずることが、在日朝鮮人教育論の構造を明確にする作業となりうる感性的根拠がそこにある。

2 詩人・金時鐘の方法

 金時鐘の講演を聴いた人は、その圧倒する濃密な言語に、話し言葉とは異質の世界を感じるであろう。一時期、彼の散文詩の朗読のような佇立した言語に魅せられて、せっせと聴きに行っていた。金時鐘は講演で、共感の言語を聴衆になげてくるといった姿勢のない孤立した言語を展開してみせる。そういう遠ざかりを通して聴く者の内によび起こす言語というものがあったような気がする。
 金時鐘の使う日本語は日本語の共通感性と切れた日本語だ。日本語の持つ習俗や共感の抒情とむつびあわない言語だ。日本の日常語の感性に対置すべくしくまれた世界だ。
 金芝河の詩に「"醜"を生きる思想」を読みとる金時鐘は、自らの詩の方法を重ねて語っている。

 詩は美しくあるべきだという、いつの間にかでき上がった美への志向こそ、じつは、明らかにされねばならないものなのです。私たちが「美しい」と言うとき、そこには必ず、醜いものを対置して働いている美意識があります。本当に、美しいことが詩であるとき、民族の圧倒的数量を占める民衆が余儀なくまみれた生活を強いられているとすれば、美しくあらねばならない詩は必然的に民衆を敵にする思想とはならないでしょうか……
 醜を抱え切れない純一性こそ、ファシズム右はないかと思い当たるのです。日本の思想が恐ろしいとすれば、端正さを貴重がる美の思想のような気がしてなりません。……
 “醜"を裏へ裏へと押し込んでいく思想、構造は身近にいくらでもあります。……芸ごとが占める”美しい"形が”醜"を寄せつけない生理感覚ともなっていきます。美しくあろうにもありようがない生活体、意識体には思いなど及ぶことはなく、ふっきれたぶんだけ”美しい”ことは磨かれたことともなる思想なのです。(「”醜”を生きる思想」『クレメンタインの歌』所収)

 「いつの間にかでき上がった」言語の秩序へのあらがいは金時鐘の生の根幹に根ざしている。日本語の秩序には、「詩になる」とか「詩にならない」として識別してゆく美意識がある。日本の美意識はこの"醜"を抱えるどころか排除することによって美的秩序を確保してきたという認定が金時鐘にはある。短歌などの日本の短詩型文学の抒情に、彼は日本の思想をとりしまってきた「個人の思考を超える共同体的共感の温床」をみる。

 和歌、俳句にみるような日本の短詩型文学の.もつゆるがしようのないリズム感は、文学の伝統としてはあまりにも、広い裾野をもちすぎており、日本人の心情を培う思惟、思考の土壌とさえいえるぐらいに巨大なものである。いかにハイカラな近代思想の持ち主であれ、この伝統的抒情に出くわすやいなや、もう「純粋」日本人の相貌と情感をかもしだすのだ。神風特攻隊員や学徒出陣兵士たちの遺書に散見する辞世の歌も、忠臣蔵の浅野内匠頭が死の間際に詠んだという悲憤の辞世も、ひとしなみに「歌」であることによって両者の違いは渾然となり、哀惜の詠嘆だけが時代を超えて読む者の情感に取りこんでくるのである。(「亡霊の拝情」前掲書所収)

 スキー客で溢れたプラットホームで、駅員の指示のもとになだれてゆく乗客のうねりの中で、金時鐘が感じとる、いい知れぬ恐怖は、関東大震災時の日本人の白色の被動性に照してみれば、おしはかることは不可能ではない。しかし和歌、俳句の自明のあの抒情性が、スキー客の群集のファッショ的根幹と同質であろうことを思い到りうるだろうか。ナショナルなものが、短歌・俳句といった抒情詩を通して、生理感覚次元で日本人の皮膚感覚にくみこまれてゆくという構造は、日本語表現の秩序の外にあっては見ることができない。同時に日本語の秩序の内にくみこまれていてもみえてはこない。いや、組み込まれてあることの異和をテコとしてしか見えてこない、解体への意志にみあって見えてくる秩序だ。日本人が、日常の言語を通して日常構造を心的秩序にまるごとくるまれてゆく消失する「和」の地平を爆殺する創造の拠点がある。この吊るされた地点に在日朝鮮人としての金時鐘がいる。
 抒情の質によってその人間の思想をはかることができるという金時鐘の持論は、人間を根元のところでつき動かすのは、体系的思想などではないという確信に支えられている。人間をかり立てるのは、いつの間にか血肉となってしまっている抒情であるか。自ら、そうした環境としての抒情から脱することによって獲得された抒情=思想であるか、そのどちらかであろう。人が抒情の口を不用意にあけているとき、ナショナルな天使は、すばやくはいりこんで受胎させうるのだ。生まれた作品は誰れの子か? 演歌に陶酔するマルクス主義者を、金時鐘は信用してはいないだろう。
 日本語の表現秩序への異和は在日朝鮮人の位置を正確に語っている。異和としての日本語を生きる在日朝鮮人の思想的位相は正当にとりだされていないのが現状ではないのか。金時鐘が〈在日〉にこだわるのは、〈朝鮮〉に引きつけられるあまりに〈在日〉を蒸発させてしまう発想の根強よさが在日朝鮮人のなかにあるからだ。〈在日〉という情況のなかでこそ闘えるあり様が、〈朝鮮〉に似せて自己を形成する民族的慣性の蔭で見えなくなっているのだ。
 金時鐘が日本語で詩作するのは、余儀なくそうしているのではない。自己の生成の拠点をはなれて人は闘うことはできないのだ。

 この私の、揺藍期の夢がいっぱいに身籠っている日本語を、私は放擲するつもりは毛頭ない。そうではなくて、過重な規制によって培いえた日本語を・日本人に向ける最大の武器として私は駆使したい。
 在日朝鮮人二・三世が海の向こうの母国に、類似している自分を探すということではなくて、民族的本質を断絶的に継承しているところの内実を思想化し、その内側に加工し乗り越え、そして編入させてゆく。自分の資質を日本的資質ととらえて、日本人の視界、日本人の感性、日本人の思惟を打砕く武器とする。そういうことによってのみ、在日朝鮮人の論難は正当である、と私は思うのです。(「朝鮮人の人間としての復元」『さらされるものとさらすものと』1971年 所収)

 〈在日〉を〈朝鮮〉と〈日本〉の中間にイメージして〈在日〉を〈朝鮮〉に到りつく過程とする発想は、〈在日〉を〈日本〉へ帰順さすべき可動点とする入管行政百年の大計と、どこに差があるというのか。ベクトルが逆むきであることの差異は、〈在日〉を〈朝鮮〉と〈日本〉の間で蒸発せしめるほどの同一性にくらべれば、とるに足りないことを気付くべ.きではないのか。"敵"の発想にからめとられて、知らぬ間に自己限定をしてしまう闘いというものがあるのだ。
 金時鐘の〈在日〉の思想は、在日朝鮮人は勿論、"進歩的"日本人も入管権力をも、一網打尽に捕えてしまう、戦後の〈在日〉の知の陰謀を解体させる作業であろ。金時鐘のこの〈在日〉の解体構築の営為は、遅くとも1960年前後から孤絶の中で行なわれていた。今日でこそ、在日朝鮮人にとって〈在日〉を生きる自己が、すでに一つの(朝鮮)であるという、金時鐘の解体構築の命題は、一定の市民権をえてきてはいる。
 しかし、金石範がようやく、金時鐘の発言を理解しうるようになったのは1970年代も終りのことであろう。(『「在日」とは何か』1970年など)不幸なことに、金時鐘のメッセージを正面から受けとっていい、在日、二、三世以降が、金時鐘の思想的苦闘から思索しはじめたのは、最近のことに属する。(梁泰昊「釜山港に帰れない」(1984年)在日の思想性に接近してみせる在日朝鮮人二世竹田青嗣の『〈在日〉という根拠』(1982年)にしても、金時鐘の〈在日〉の変革思想は正当に理解されてはいない。日本人が、日本の戦後思想が、この在日の思想にヨタヨタと対応しはじめたのは1980年を超えてしまっていた。それもせいぜい、以下のような発言にとどまる。

 日本の中で、ここが韓国なんだ。ここが朝鮮なんだというふうに生きられる人間がたくさんでてきて、そういう態度をもった人間にであうというのが、われわれにとって自然のというか、自然のことというよりも、生き生きした体験になるような、そういう日本の伝統をつくらなければ、くり返しくり返し排他的な国家主義にもどっていく。それは日本人の間題なんです。
(「在日朝鮮人文学をめぐって」(座談会)での鶴見俊輔の発言。1981年 前掲論文とともに金石範の『「在日」の思想』所収)

 日本人教師たちが、解放教育運動の中で、金時鐘の言葉に多く接していながら、金時鐘の〈在日〉の思想を受けとめることができなかったのはなぜなのか。教育論の罠との対決をぬきに、金時鐘の言葉は我々の前に現われることはないのだろう。〈在日〉が明日へ向けての創造と可能性の力オスであってみれば、自明性を前提とする教師の習性に端から逆らっているものだからだ。

3 〈在日〉の思想としての詩

 日本人になぜ日本にいるのか、という自問はない、在日朝鮮人にとって〈在日〉とは日常である。日本人にも日常はある。しかし日常の意味から遠くへ逃げていく。日常の切実さを切り込んでゆく言葉の喪失は何だろう。意味を失った日常から切れて、詩的な修辞で世界を構成しようとする日本の戦後詩の悲劇は言ってみれば異和としての日常を本当は、根元のところで持つ契機を失なっていたからだ。日本人に、なぜ〈在日〉しているのかという問いがバカゲテいるように感じる度合いに応じて、言葉は遠心分離機にかけられたように、己の生活から飛び去ってしまう。日常の生に切り込めない詩が思想詩たりうる筈がない。現実の物や心や感情やらの配置がえ、インテリアショールームの虚構築が詩であると思い込まされている日本の読者が、ましていわんや、「私、本当に、現代詩は教えていてよくわかんないのよ」と恥部をさらして平然としている日本語教師が、金時鐘の詩を読める道理がないのだ。
 金時鐘の詩は〈在日〉の位相を、この日本にかつてあったことも、今もまたありようのない日本の〈不在〉の地点に、転位させる思想詩である。
 長篇詩『新潟』(1970年刊)は、なぜ〈在日〉を自分は生きようとするのか、〈在日〉を生きるとはどんな事態であるのかを反問する金時鐘の鼓動がきこえてくる詩集だ。「なぜ帰らないのか」という日本人の庶民的排外感情が〈在日〉の根拠を反問させているのではない。1959年12月、朝鮮民主主義人民共和国の送ってきた船は、新潟を出発した。〈つくしのようなはらからの一国〉を乗せて。共和国刀さしのべた在日朝鮮人への愛を金時鐘はうたわずにはいられない。〈春は/雨をついてくる/船のようなものだ。/雪に埋まった/北越のくにに/船は/海からの手を引いてくる〉しかし手と手が出合わない。
 なぜ〈在日〉を生きるのかという反問は、この〈海の/へだたりを/つきぬけた/愛〉の前で展開されるのだ。さしのべられた愛に帰することのできない、在日朝鮮人あるいは金時鐘の〈解放〉の夏以後の自己の生成にかかる生理があるのだ。祖国であり、社会主義国であり、あふれる愛をかざしもてくる手に不足があるのではない。そこに自己を渡たせぬ生成というものがあるのだ。架ける橋の、こちらの橋桁の空虚さはどうだ。どんな必然が積みあげられてきたというのか。愛されることと、愛することが出合いようもなく隔たる愛というものがあるように、社会主義の祖国はやはり海のかなたの愛なのだ。
 「思想」が媒酌人であるとき「思想」は問う。君には祖国建設に役だつ持ちあわせがあるかね。君こそは、帰国すべき存在だ。帰国してこそ君を生かせる、と。金時鐘が帰還船のまわりで見た「思想」に対決しなければならなかったときに、〈在日〉がわずかに自らを語りはじめたのだ。

誰に許されて
帰らねばならない国なのか。
積みだすだけの
岸壁を
しつらえたとおり去るというのは
滞る貨物に
成りはてた帰国が
ぼくに
あるというのか。
………
あまりにも
かかわりのない蘇生が
露路うらの箱巣にありすぎるのだ。
迂回した
緯度の
たやすさに
行きつくだけの桟橋を
ただ振られている決別のように。

 〈在日〉の生を、とりしきって「蘇生」させようとする「思想」への対決ではあっても、家郷めざしてなだれる在日朝鮮人のはやる希求への批判ではない。〈それが、たとえ幻の遍路であろうと〉眠りまでが安息をもたない〈在日〉からはじかれた必然なのだ。しかし「思想」にとりしきられて、陰でそこなわれてゆく在日朝鮮人の生への痛み、又、そのような「思想」への怒りが、金時鐘に〈在日〉の思想をつむがせるのだ。〈一昼夜/海をまたいだ/船だけが/ぼくの思想の/証しではない。〉在日朝鮮人の生の全体が思想の証しだ。〈またぎきれずに/難破した/船もある。/人もいる。/空漠とした/宇宙へ這いだす/昆虫すらいる。/頑迷の果てに/埋れた/丸木船の日日を/人は/自己の意義に賭けて/その無為だけを/なじってはならない。〉思想が器用に〈在日〉をさばくとき、〈在日〉はそっくり抜け落ちてしまう。〈在日〉の位相は、思想の手のひらをこぼれてしまう。すくいあげる言葉の困難こそが〈在日〉の困難であり、その創造の源泉なのだ。
 整序された理や民族的感性は、帰国の側につく。〈在日〉をとることに、積極的な、理を立てて弁ずる意義があるのではない。私の生成にかかわる生理なのだ。〈ぼくが/残るのは/もぬけの殻だからだ。〉祖国につながる今を生きられてきていない。いくら橋をのばしてみても、とどきようのない空白の在日。在日を斗って来なかったのではない。しかし、帰国しようとして持って帰るものを探したとき、そこには何もない。〈ちりを払うと/行李ひとつの/中味もない〉在日の「堆積」などありはしない。いやこの胸の鼓動が、と言ってみても、祖国の闘いときれている在日の自己の斗いは、祖国にとっていかなる堆積でもない。〈魅惑の/資本主義に/尾羽打ち枯らした/自己の/ゆるがぬ純血度こそ/買われていい!〉〈どだい/まがいものの/ありあまる国で/損われることがどうだというんだ?!〉胸の鼓動は〈ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!〉と叫んでみたところで、切れている。〈在日〉にひしがれた個別の闘い様など、パルチザンに比して何だというのか。何ほどの堆積でもない〈在日〉に冷やかな目がそそがれる。〈朝鮮〉という遠景を生きなければ、祖国につながりようのない〈在日〉。自己の〈在日〉がぬけがらであるからこそ、帰りようがないのだ、という金時鐘の自己規定は、在日朝鮮人社会と日本社会とに狭撃されて、蒸発してしまった〈在日〉のがらんどうの中に、自己の闘いの家郷を見定めたからにほかならない。
 見定めた地点は、しかし、依拠しようのない不在の地点だ。日本社会は「帰ればいいのじゃないか」と言う。朝鮮人社会は「祖国建設のために帰ろう」とか「なぜ北なのか。祖国でないのはなぜか、南の母を捨てるのか」と言う。

〈在日〉は「思想」のはざまで、不在の姿で自己をさらす。「思想」にとって危険な相貌で立ちあらわれてくることになるのだ。

ここにとどまるぬけがらが
まさしくお前の
お前だと。
ひたかくしの
奥の
ぼくのぬけがらに
むしられた少女の
ことばのかけらが散っている。
がらんどうの
部屋の
荷のない行李に
妻の手ざわりに折りたたまれた
行方不明の
ぼくがいる。

〈在日〉の位想は、この「ぬけがら」「行方不明」の「ぼく」の中に確からしいものをつめこんだ結果あらわれるのではない。ぬけがらのがらんどうの行方不明の「ぼく」に、〈目に映る/通りを/道と/決めてはならない。/誰知らず/踏まれてできた/筋を/道と/呼ぶべきではない〉〈海を/くり抜いてこそ/道だ!〉という闘い様が可能になるのだ。しつらえられ、与えられるものに命運をおしながされてきた在日朝鮮人、とりわけ〈皇国〉〈解放〉〈革命〉〈祖国〉〈帰国〉という「思想」が自己と無関係のところで与えられてきた金時鐘の生理に、「しつらえてある道の一切をぼくは信じない」があるのは自然だ。しかし〈在日〉の位相が、行方不明を本質とするのであるとすれば、この主体の保障された一切への不信は、すべての「思想」にとって危険なのだ。言うまでもなく、この危険性に〈在日〉の思想性がある。が、〈在日の行方不明性は、閉された〈在日〉の退廃と背中合わせである。〈家郷を/船底に/閉じこめたまま/ただ待つだけの/区切られた/背中が/世界につながる/海で/痴呆けてゆくのだ〉
 自己が世界につながる地点で、行方不明の「ぼく」がくりひろげる闘いの根っこは、〈在日〉という生活そのものにある。同時に「痴呆けてゆく」根っ子〈在日〉という生活そのものにある。闘いの拠点としての、創造としての〈在日〉の生活体を、背中合わせの闇とともに描きだしたのが『猪飼野詩集』(1978年)である。〈在日〉の根の張り様への信頼と、行方不明性の〈在日〉の非日常の噴出とがおり重なって問うてくる。行方不明の生に耐え得る生活の根とは何なのかと。これが明かされないかぎり、「在日朝鮮人とは何か」に答えることはできないだろう。そうして、それに対置される日本人の生はどのように呪縛されているのかも見えてはこないだろう。
 金時鐘の世代にとって、〈在日〉の日常をくらませるものは、あの夏からやってきて、今を不在の地点に投げ込んでしまうのだ。狎れあった日日と相似型の〈朝鮮〉がそれではない。

 統一までが国家まかせで/祖国はそっくり/眺める位置に祭ってある。/だから郷愁は/甘美な祖国への愛であり/在日を生きる/一人占めの原初さなのだ。/日本人に向けてしか/朝鮮でない/そんな朝鮮が/朝鮮を生きる!/だから俺に朝鮮はない。

 在日朝鮮人が思い描くとき、朝鮮人の側から提出される。この程度の〈朝鮮〉の原像しかないのだとしたら、何も在日朝鮮人教育論を改めて考える必要などないのだ。日常と狎れあって生きている〈朝鮮〉が、〈朝鮮〉でないという。金時鐘の断定を、民族教育論のレベルで受けとめられうるのか。〈在日〉の日常を〈朝鮮〉たらしめる、過去からの放射に答えうる何を積みあげてきたというのか。わが日本のきみは、僕は。

俺の伸び上がる先で
そうだ! まちがいなく
その先で
照り映えていた日があったのだ!
手という手が
差し上げた先で湧きかえっていた
その熱い日射しを見なくなったのだ!
抱擁があった!
どよめきがあった!
声でない声の涙があった!
思想に命運を
あけ渡したことなどなく
兄嫁があり
いとこがおり
山が揺れて
海が光った!
うとくなった年月の果てで
俺の暮しは 延びあがる先で闇となるのだ
枢、
枢、
柩、
瓦解するダンボール箱に
おしひしがれる
夕餉
(「日日の深みで(一)」)

 『猪飼野詩集』にあざやかな形象をくまどって成功している詩は、一世の実存にせまった作品だ。あるいは言われるかも知れない。「海が光った!」体験から切れている在日二世、三世の〈在日〉はどうとらえられるのだ、と。光が、現在生を不在の極に追い込む一世のあり様と光をもたない囲われの中での生育を生きる二世、三世と、その〈民族性〉がちがうのか? そのちがいは〈民族性〉という言葉ではくくれはしない。日常の手順のような〈朝鮮〉ではない〈朝鮮〉に〈在日〉のどの地点が出合うのか。その出合いの地点を金時鐘は語ろうとはしない。

 〈在日〉への下降の底に見えてくるものをとらえる。〈在日〉のすべてをとらえようとする希求が、その日常から不可避にわきだす。この、〈在日〉の装置は世代を問わない一世と等しく代をついで、みあげられた箱のような〈在日〉かつづく。〈光りのうらで白んでいるのは/ものうい語りの/独白だ。見知らぬどうしが/よそおいとおした/ものぬけの殻の/がらんどうの所在だ。いつとはなしに/くらました/沼の底の/鐘の孤独よ。〉(「果てる在日(一)」)

 通称名であろうと、本名をさらしていようと日常は常に〈在日〉にとって、二重化された現実だ。だからいつでも日常は装置された現実だ。だからいつでも日常は装置された仕組の中で、自己にくい込んでくる。よそおいがどんなものであったとしても、日常はいつでも異和であり、向うの存在として現前しているものだ。くらませる陰がどこにあるのか。
 行方不明の〈在日〉を生きる強さこそ、日本に囲われた日本人の生に見えない不在の確固さなのだ。この前でふるえている「くに」はどこの「くに」なのか。どんなふるえであるのか。

 岩盤を生きるつよさがなんであるかは、彼女にとってさしたることのいわれではない。ただ、根づくことのない異郷の固さにも、どっかり腰を据えていられる場所が、自分にあることを知っているだけである。
 さかしまに裸の根をかざして、わざわざ風のわたるうすくらがりを見入っているのが、よもや彼女をかかえているくにのふるえであろうとは、誰もまだ知るはずのないことなのである。(「朝までの貌」)

 私は、〈在日〉の思想の困難と〈在日〉の思想的な優位性を、金時鐘の詩から読みとってきたつもりだ。だが、金時鐘の孤立の度は深い。彼のイラダチ様は、ただに在日朝鮮人にのみ向けられたものだろうか。在日朝鮮人の生を、無意識にも、意志的にも、とりかこむ日本人の「今」を明かす。意識のあっけらかんとした不在へのイラダチを感じてしまうのは私だけだろうか。『光州詩片』(1983年)から、「日々よ、愛うすきそこひの闇よ」を引用しよう。

なにがあるというのですか?
今日が今日であったなんの証しがあなたの今日にあったのですか?
返された笑みでしたか?
ねじれた嫌悪のお返しでしたか?
とって返した踵ではなくそれでも求めた手だったのですか?
出会えない仕切りの向こうとここで
交わる言葉のひとひらくらいは届けましたか、届きましたか。
同胞と僑胞はどの夜の「どのようなしじまで安らいだので
同じ呼び名がせめぎあう日日のきしみはなくなりましたか?
そうも方便に在日をこなして
それでも不幸は日本暮しが仇なのですね?!
やめにしましょう、人さまのせいで耐えるってことは。
そこひの闇をまぎれていながらやせた条理の鰓だけが張るさもしい正義は棄てるとしましょう。
手なれた手順の手際のような。



4 「民族教育」は可能か

 金時鐘に問うてみたいことがある。あなたにとって「学校」とは何であるのですか、と。何であったかは語ってくれている。在日朝鮮人にとって日本の「学校」とは何であるのかがききたい。兵庫の解放教育運動との出合いの中で、あなたの「学校」はどう変容したのか、しなかったのか、「学校」は在日朝鮮人の生きる場所に変わり得るのか、問うてみたい。それは、あなたの問題でこそあるでしょうと返されるとしても。
 小沢有作が〈近代学校〉が差別構造を生みだす母体として機能していることを、解放教育の現場に密着した視線で引きずり出した(『部落解放教育論』)にもかかわらず、解放運動の側が、近代学校を越える営為としてあった解放教育運動を学校のワクの中に囲い込んでしまったという現代の教育情況の中で小沢の作業は外にほうり出されたままだ。
 近代学校が差別構造を再生産してやまない根のところに、もう少し深い近代の罠を見すえる必要がある。一言でいえば近代学校は、子供たちをその生きる場から引きはがす試みであったろうということだ。農民の子を、農の世界全体から、漁師の子を海と生きる世界から、まるごと引きはなす仕かけが近代学校であったろう。人間をその生活土台から隔離してゆく近代学校の暴力性が、最もむきだしの型で、日帝の統治下の朝鮮であらわれていた。他民族の文化の抹殺としてあらわれたのは日帝の植民地支配の暴虐性の故、とだけ説明するのは誤りだ。日本の近代国家の担い手を育てた近代学校の機能の同じ顔の現われなのだ。
 文部省唱歌は、日本の北から南までの子供たちの幼い日の記憶をとりしきった。日本の抒情は雪国も南国もひとしく夕やけ小やけなのだ。それぞれの祭の唄は民謡と化してフェスティバルホール入りだ。これは植民地下の朝鮮の学校と、原理的には一つなのだと言えば言いすぎだろうか。

 私には、童謡、子どものとき唄ったわらべうたがありません。誰しも至純に想い起こさるべき、幼い日の歌がないのです。あるのは押しつけられた日本の歌ばかりです。それも押しつけられる歌とはつゆ知らずに唄った歌でしたので、無心に唄う幼い日まで失くしてしまった「歌」なのです。あり余る朝鮮の風土の中で、ほおもめげよとばかり声はり上げて唄った歌は、みながみな、日本の童謡であり、文部省選定の唱歌ばかりです。夕やけ小やけと唄うとき、かさぶたのような藁屋根の向こうに、鎮守の森を歌ごころでかぶせて唄っていたのです。それだけに歌の情景から遠い朝鮮の風土は、私の心からずんずん離れていかざるをえなかったのでした。(「私の出会った人々」1980年『クレメンタインの歌』所収)

 学校がいかに子供を生活者の世界から隔離するものであるか。今、目前に展開してある風景からも遠ざけるものであるか、語りつくしている。子供の抒情までローラーをかける同化教育のすさまじさを、金時鐘は、日本人の文部省唱歌から引き出されるあの幼い日を奪われると対照させている。これを読むとき、日本人は、幼い日の学校で教わったわらべ歌の構成するなつかしさ、抒情に依拠して植民地教育の無惨さを思う。しかし、ちょっとまってもらいたい。唱歌に子供たちの抒情がくくられて、日本中が同じ抒情で満ちてあることは、学校の暴力性の結果でもあるのだ。夕やけ小やけを唄った子供たちが、特攻隊員の辞世の句に共感していったのではないのか。「個人の思考を超える共同体的共感の温床」を、生活世界から引き離した子供たちに育てる装置が「近代学校」にこそあるのではないか。あのなつかしいわらべ歌を奪われたとは! と受けとる感性がすでにして、損なわれたものではないのか。夕やけ小やけの風景に共感しえない個を排除する発想が、朝鮮人に向けられてきたのだ。土着の世界が個々の唄をうたっていたとき、風土は多様にきらめいていなかったか。峠からきこえる馬子唄はどの村の誰れが、どのあたりまで、帰っているかを村人に知らせもしたのだ。馬子唄は唱歌のように普遍の抒情を生徒に培う均質さとは無縁だ。和歌・俳句が、近代のナショナリズムと結合し、「国民感情」として排除をはらんだあの抒情へと遍在せしめられる過程そのものとして「近代学校」は存在してきたし、今も又、同じ機能をはたしているのではないのか。近代学校が、対象化されないとき、いつまでも「日本人」は永劫、古代エジプトの彫像のように原型のままなのではないか。近代学校が、私たちをどう形象していったか。その作業のはてに日本人が、〈在日日本人〉として、自らの世界を形成する展望がでてくるのではないのか。
 金時鐘が、皇国少年として自己形成を強いられて、〈解放〉が〈解放〉として自己の内に現前してきた契機が、父が口ずさんでいた朝鮮語のクレメンタインの歌だったことは象徴的だ。天皇の赤子になろうとする皇国少年にとって、相も変わらぬ白い周衣で街を歩く父が、少年から遠ざけてゆく過程は、学校が、親をもふくめた生活の世界から子供をさらってゆく過程なのだ。そして、朝鮮人としての自己をとりもどし得たのは「父」にあった土着の生活だった。クレメンタインの歌が彼の学びになったのであって、これは、教育とくくられるべきではないのだ。まして「学校」とは無縁のことだろう。
 なぜ日本の学校で「朝鮮語」を、金時鐘が教えるのか。学校教育の魔性に、これ以上ない損なわれようを生きてきた金時鐘が、である。「朝鮮語」を学習し、朝鮮の文化・歴史を学ぶことによって、〈朝鮮〉に行きつくのだ、という発想を批判する、金時鐘が、なぜに。この間いへの答の延長線上に「民族教育」の、正確にいえば、兵庫解放研の在日朝鮮人教育の困難な地平が見えてくる。
 金時鐘は、自ら教職の位置にありつつ、学校教育の全体に気を許してなどいない。教師のあり様に対する大カッコのくくりの中で自ら教師をしている。このカッコがあるのと、ないのでは「民族教育」も根っ子からちがってくる。

 朝鮮に来た日本の先生たちも、個別的にはみんないい人たちでありました。朝鮮に入植した本の人たちも、また個別的にはみんないい人たちであったに違いありません。やさしく、折り目正しい人たちでしたのに、どこかで本当のことが知らされないために、個人の善良さというのは集約すると全体のいけないことに還元されてしまう。教師は口ぐせのように強く正しく生きよと教えていながら、それを受け入れる子どもたちが、「強く正しく」生きることが現実には祖国の「朝鮮」から離れていくことでしかなかったのですから。今日の教育者たちにしたって、かつての日本の教育者たちの系譜につらなっていないとは、まだ誰れも言いきれないことのように私には思えるのです。(同前)

 植民地統治下の朝鮮で教えていた日本人教師と、同じ系譜の教師と、そうでない教師と日本の学校の中に線を引くことができるのではない。「解放教育」派の教師の「善良さ」が、どのように「民族教育」を、自己に合わせて形象してゆくか。全体の奇形に至りつくことがある。日本の学校の同化教育に自分は組みしていない、と言えないように、「民族教育」という場が直接的な意味で、つまり、朝鮮の文化・ことばを教えることで、日本の学校に成立すると言えないのだ。
 この「民族教育」が直接的に成立せしめられるとき、「解放教育」派教師の「善意」が近代学校のあり様にからみとられてしまうことを金時鐘は、その臭覚で気付いていた。

 先生方のほとんどが、勉強した知識を分けることなく、自分個人のものにすることによってのみ有名校をめざしえた部類の人たちであったことも、またつらい事実の一つです。その知識人たちがいま解放教育に身を挺しているのです。どこかで転位してなければできないことを、いま一生懸命とりくんでいられるわけです。どこでどのように転位をとげてのことでしょうか? その転位のとげかたが問題なのです。
 確実に奪われていった歴史から目かくしされ、見せかけの真実に真理を追い求めていた自己の負い目が、先進的意識を表立たせねばならない「解放教育」になだれるとき、もうれつにせかれるかたちで自分をも含めた告発者を必要としてくるのです。そして、その告発者の登場にただ服するという、誠実さだけをおう溢させる忍耐教師、もしくは善意の社会人が現出するという次第です。……
 在日朝鮮人といえば、はなから「差別」の対象でしかないような意識。もしこのような視点をそのまま延長させるとなると、このような意識とか、視点、感性を差配しているのが、実は、おのれの信条のために朝鮮人の主体的な自我登場を釘づけにする独善であったとしたらどうなるのでしょう? その所為は日本人の思想証明の場に一方的な証人の座を朝鮮人に押しつけ、くくりつける今日不在の朝鮮人強要とはならないでしょうか。(「「差別」のなかの起点と視点」(1974年)『きらされるものとさらすものと』所収)

 日本人教師が在日朝鮮人生徒に、「あなたは朝鮮人である。よって、母国語を学び母国の文化・歴史を学び、損なわれた君の朝鮮を回復すべきである。通称名をやめて、本名を名のるべきである」と迫る。この教師が持っている在日朝鮮人像の限定のされ様に不満なのだ。教師が在日朝鮮人を生徒の内に囲い込むとき、生徒は教師の"指導"の下に変容さるべき、"きたえ"られるべき存在になる。教育論の枠組みが在日朝鮮人を限定してしまう構造がある。
 在日朝鮮人は「差別」され、同化の中で自己を損なう生育を生きてきたのであり、その自己回復への道を教師たる私が支えてやるのだという庇護意識のなかの朝鮮人の原像が、生徒としての在日朝鮮人の自己イメージを規定してくるのだ。
 〈在日〉であるが故に見えてくる世界の風景、〈在日〉であるが故に日常構造をズラしうる自由! 可能性。いまだ自覚されていないとしても、代をついできた〈在日〉の行方不明性が照らす実存の確かさ。
 創造さるべき〈在日〉の生存を、ひとしなみに、自明なるものとしての〈朝鮮〉に囲い込み、差別-被差別の構造にあてはめる。そして、反論しようのない正当性をもって「本名を!」と迫る。これでは、損なわれた生の回復すべき自己は、あなたまかせにつくられてしまっている。
「民族教育」は、金時鐘の次の発言に答えうる自己をどこに見定めうるのか。

 在日朝鮮人にとって〈朝鮮〉とは「在日」のことなのだ。「在日」を生きることに、若い在日世代たちよ、確信を創りだそう。固有の伝統慣習から切れているとして、それがただちに負い目となるのではなく、本国にすらないものを私たちが持っているのであり、それが持ちこまれることによって豊かになるべき伝統を、慣習を、はては思想までをも、私たちは始まるべき「在日」の”はじまり"に据えるとしよう。本国に併せて〈朝鮮〉に至るのではなく、至り得ない朝鮮を生きて〈朝鮮〉であるべき自己を創りだそう。(「展望する在日朝鮮人像」1976年 『クレメンタインの歌』所収)

 「至り得ない朝鮮を生きて〈朝鮮〉であるべき自己を創りだす。」在日朝鮮人に、学校の教師が、学校の構造を、即自的に引きずったままで、向きあいうるのか。勝手な限定と思い込みでも”強く正しく"生きよと言うことの裏には、負い目としての朝鮮の教え込みがあるのを知るべきではないか。
 金時鐘が、朝鮮語の教師として湊川高校に位置したとき、「民族教育」が始まったのではない。母国〈朝鮮〉からも、在日朝鮮人集落からも、孤絶して生きている〈在日〉に朝鮮語がはいることによって〈朝鮮〉が近づくのではない。日本の学校体系の中で、又日本社会の意識の中で、異和としてしかありようのない朝鮮語がはいり込む。「なぜせんならんね?」という日本人生徒の叫び。「なんでさらしものになんのや!」と泣きじゃくる朝鮮人生徒。自明な教材を自明な手順で、世にある様な手順で、変わりようのない関係のなかで、互をかくしとおして、教師-生徒である「学校」。そういう近代学校の前提を超えてしまう関係、せめぎあいが現出してしまうのだ。たかが、〈朝鮮語〉をかかえただけで、それほどに「学校」は整序されつくしていたのだ。近代学校の秩序にくるまれてある感性が、朝鮮語を排除するのだ。朝鮮語を朝鮮人生徒や日本人生徒が習得することによって、日朝連帯だ、というのではないのだ。学校教育の自明の前提をゆるがせることによって、朝鮮と日本が出合う。在日朝鮮人の自己回復がはじまる。

 さらしものになっているのではない。さらさねばならないことをさらしあっているのだ。……K君よ、考えてもみてくれ、君たちが「朝鮮語」に出会っただけで、朝鮮人がふるえるのだ。同じふるえでも、歓喜のふるえがあることも知ってくれ。私のこの思いが、湊川高校へ来させ、またいきさせていることのすべてだ。〉(「さらされるものと、さらすものと」1975年 『さらされるものと、さらすものと』所収)

 兵庫解放研の、近代学校の解体を思想的にくぐらせたところで実践をつくってきた質が、「民族教育」落ち込む罠を明確にした金時鐘と出合ったのだ。今は?! と思えば、この罠は、教師か学校にくるまれて、学校を意識しえないまでに教師であるとき、教育論としての〈在日〉しか見ようとしないとき、いつでも、我々をのみこんで、安住の地に往生させようとするものなのだ。金時鐘の詩を借用しよう。

葬るな人よ、
冥福を祈るな。
(「光州詩片」)

 了



(『むくげ』101号〜103号 1986年 
http://kangaerukai.net/101kitadume.htm)

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近代文学作品と〈学校〉(3)〈地〉化する〈学校〉

(3)〈地〉化する〈学校〉 2008-06-17

 何十年も小説を読まなくなっていた「特性」を「生かして」、昔の小説と、最近の小説を交互に読んでいます。たぶん何万分の1くらいしか読んでいないので、印象と独断の仮説の連続になるだろうと思いますが、今時の小説になれてしまう前にメモしておくことにします。


 夏目漱石の作品には「先生」や「学生」や「学校」がたくさん登場します。『我が輩は猫である』の「猫」の飼い主、苦沙弥先生は、高等学校の英語の先生だし、『三四郎』の小川三四郎は東京帝国大学の学生です。そんなことは誰でも知っていますが、先生や学校の扱い方が、今時の小説とは違っています。「先生」や「学校」は小説の単なる背景とか場ではなくて、小説に不可欠な「主題」になっているのが漱石のそれらの作品です。ところが、学園物と称せられる小説もふくめて、今時の小説にも先生や学生や学校は登場しますが、それらでは、おおよそ学校や先生は、「主題」ではなく背景です。地と図ということでいえば、総じて今時の小説に登場する学校は「地」なのです。ところが漱石に限らず、明治期の小説に登場する学校や先生は、「地」ではなく、「図」なのです。もっとはっきり言えば、学校や先生にたいする批判意識がせり出しています。石川啄木の小説もそうですが、島崎藤村の『破戒』なども、実は学校や教員にたいする批判意識が強烈にあるのです。丑松を追い出した校長たちは、丑松の追放を「改革」なのだと位置づけているところが後ろの方にありましょう。

昨日校長が生徒一同を講堂に呼集めて、丑松の休職になつた理由を演説したこと、其時丑松の人物を非難したり、平素の行為に就いて烈しい攻撃を加へたりして、寧ろ今度の改革は(校長はわざ/\改革といふ言葉を用ゐた)学校の将来に取つて非常な好都合であると言つたこと――そんなこんなは銀之助の知らない出来事であつた。あゝ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑――世を焼く火焔は出発の間際まで丑松の身に追ひ迫つて来たのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1502_24633.html

 最近の小説は、主人公が学生でも、学校が「主題」として登場しないように思えます。しかし、たとえば『三四郎』では、

 それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。
 ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」

 大学生活の手引きのような書き方の中に「学校」を問題化する視線があるわけです。田山花袋の『田舎教師』は実在の小学校教師の日記を資料に使って、中学校を卒業して小学校の教師をしているまずしい地方の青年を丹念に描いているわけですが、青年の挫折は学校という図のなかで描き出されています。

学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1668_26031.html

 こういうなんでもないような学校の記述ですが、最近の小説ではお目にかかれない気がします。それは〈学校〉が近代の歴史の進行と共に、舞台に登場する役者ではなく、背景画、動くことのない自明の前提として近代の舞台の中に繰り込まれ〈地〉になってしまったからではないでしょうか。そうだとすれば、近代文学の初期の方にこそ、学校を相対化し、批判する言説は多く見られるハズだということになりましょう。
 前に、芥川の『大導寺信輔の半生』を取り上げて、芥川の学校への懐疑を感じ取りましたが、一般的に言えば、この世界を描こうとする作家が、現実にある世界をそのまま肯定するというのは創作行為の自己矛盾でしょうから、学校批判があるのは当たり前なのです。本庄陸男が『白い壁』でリアルな教室の現実を小説の中に繰り込み学校制度を「問題」化したり、坂口安吾が『風と光と二十の私と』で、いわば、みごとともおもえる自分の教育実践を「老成の空虚」として描くことで、学校という制度がどういうものを生み出すのか批判的に具体的に描き出していました。このように学校や教室の細部が、今時に小説の中に登場しなくなっているのだとしたら、それは〈地〉になってしまった〈図〉を見ることができないからだろうといえましょう。近代文学は、かつて封建社会の〈地〉に組み込まれていた「私」を〈図〉化することで、自らを確立しました。しかし、いまや近代文学は自らが織り込まれている〈地〉から〈図〉を取り出すことができないのでしょうか。これは単に文学者の責任と言うよりも、学校制度を支えてきた、支えている私たちが〈学校〉を〈地〉化したまま、そこに埋もれている自らの輪郭を見ることができなくなっているからなのでしょう。もしかしたら、近代文学の消滅は学校の「力」なのかもしれないのです。

画像は

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近代文学作品と〈学校〉(2)モノが薄れる

(2)モノが薄れる 2008-06-13

 本を読むということは、「モデル作者」と「語り手」と「モデル読者」が互いに相手を作り上げることなのだ、とウンベルト・エーコは言っています。たとえば「私」という語り手が、語りはじめたとして、読者は、その物語の成り行きを傍観しているのではなく、「私」やその語り手の背後から「モデル作者」が読者に語りかけ、介入してくるのが「読書」というプロセスであるとエーコ先生は『エーコの文学講義』のなかで言っています。
 私は本を読むのが、ホント絶望的に遅いのです。なぜ遅いのか考えてみると、語り手や作者の「語りかけ」に、すぐその場で応答しようとしてしまうんですね。小学生のころ、「読書感想文」というのを書いてこいと言われて、本に書いてあることから触発された自分の経験などを書いていったら「これは読書感想文ではない」と先生がクラスの前で説教して、恥をかいたのを覚えています。いまだに、いわば「脱線読書」ばかりしているので、絶望的に読むのが遅いのでしょう。ですが、エーコ先生に従えば、私の読書こそは作者から期待されている「モデル読者」なのではないか、と居直りたくなります。
 それはともかく、この語り手と読者と作者の相互作用も、当然のことながら時代の変容とともに大きく変わった来ているのだろうと思います。たとえば以下の文章を読んでください。



 毎日よく降つた。もはや梅雨明けの季節が來ている。町を呼んで通る竿竹賣の聲がするのも、この季節にふさはしい。蠶豆賣(そらまめうり)の來る頃は既に過ぎ去り、青梅を賣りに來るにもやゝ遲く、すゞしい朝顏の呼聲を聞きつけるにはまだすこし早くて、今は青い唐辛(たうがらし)の荷をかついだ男が來はじめる頃だ。住めば都とやら。山家生れの私なぞには、さうでもない。むしろ住めば田舍といふ氣がして來る。實際、この界隈に見つけるものは都會の中の田舍であるが、でもさすがに町の中らしく、朝晩に呼んで來る物賣の聲は絶えない。(島崎藤村『短夜の頃』)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/46402_27009.html

 朝顔売とか、そらまめ売とか、青唐辛子などを売り歩く人たちを見たことがない読者でも、物売りの声を聞いたことがあれば、それなりにこういう情景を描くことができるでしょうが、竿竹売りの声も聞いたことがないと、こういう文章から、モノを通しての季節のうつりゆきを感じとるのはとてもむつかしいのではないでしょうか。そういう時代になってしまうと、「モデル作者」はこういう文章を書けなくなりましょう。

 これは、どうでしょう。

 板ばりの床にひかれた感じのいいマット、雄一のはいているスリッパの質の良さ──必要最小限のよく使いこまれた台所用品がきちんと並んでかかっている。シルバーストーンのフライパンと、ドイツ製皮むき器は家にもあった。横着な祖母が、楽してするする皮がむけると喜んだものだ。
 小さき蛍光灯に照らされて、しんと出番を待つ食器類、光るグラス。ちょっと見ると全くバラバラでも、妙に品のいいものばかりだった。特別に作るための……たとえばどんぶりとか、グラタン皿とか、巨大な皿とか、ふたつきのビールジョッキとかがあるのも、なんだかよかった。小さい冷蔵庫も、雄一がいいというので開けてみたら、きちんと整っていて、入れっぱなしのものがなかった。
 うんうんうなずきながら、見て回った。いい台所だった。私は、この台所をひとめでとても愛した。(吉本ばなな『キッチン』1987)

 よほどの料理好きでないかぎり、初めてみたよその家の台所に「ほれる」なんてことは起こらないだろうなー、と私などは思ってしまいます。ドイツ製皮むき器はどんなものか知りませんが、包丁一本あったらたりることだし、ふたつきのビールジョッキも、このころはやったのかもしれませんが、がらくたでしょう。冷蔵庫のなかに入れっぱなしのものがない、なんてのも生活のにおいがしない、気持ち悪い家だな、などとかんがえてしまう私などはこの小説の「モデル読者」にはなれないようですね。時代から言えば、私は吉本の時代に生きているのに、藤村の文章の「読者」のほうにより近いのはなぜなのでしょうか?
 小説にはさまざまなモノが登場してきます。それが登場人物に劣らず固有性を帯びているとき、私たちは、そこに小さな世界を読み取ります。それは場所と時代の刻印を押されて堂々と存在して初めて私たちは、そこに私たちが暮らしている世界とは別の世界が展開している実感をえます。モノが存在感をもって生きていなければ、モノと共に暮らしている登場人物たちも、ただの虚構にみえてきます。
 前回、「地名が薄れる」で、このごろの小説から具体的な地名がなくなっているのではないか、ということをいいましたが、地名だけではなく、モノもまたその存在性が薄くなっているのではないでしょうか。川上弘美の『センセイの鞄』(2001)のはじめのほうに、センセイが駅弁についてくるお茶入れ(陶製)をいくつも出してきて、これは妻とどこに行ったときのもの、これは……と語る場面があります。固有性を認識できるのはセンセイだけ、「モデル作者」も「モデル読者」も、そのモノを認識できない。そういうモノばかりのなかに私たちが取り囲まれている、ということを表現したかったりしたのかもしれませんが。あるいはセンセイの思い出への固着という事態のほうが問題だったので、個別のお茶入れを描き分ける必要もなかったのかもしれません。モノは舞台装置にもならず、背景画に描かれる動かない物でしかなくなっているように思うのは私の「歳」のせいなのでしょうか。
 あまり〈学校〉とつながりませんが、『国語』の教科書に登場する作品のなかのモノを、国語の先生はどのように扱ってきたのでしょうか。そういう設定で考えるべきなのかもしれませんね。

朝顔売:写真は下記より 
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no40.html

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近代文学作品と〈学校〉(1)地名が薄れる

(1)地名が薄れる 2008-06-06

 おびただしい数の文学作品の中で、学校や生徒や教室、教員はどのように描かれてきただろうか。小説などで描かれた〈学校〉像をつなげていけば、描かれた学校史というか、イメージの中の学校史ができるのではないか。これは伝統的な教育史による学校史とどのように違ってくるのだろうか。教育史が使う資料にはなかなか見いだせない「生きている学校」「経験されてきた学校」あるいは「望ましい学校」などが、かなり明確に出てくるのではないか。さらにはそのようなものとして学校を描いた人たちの学校観・教育観が、そこからくみ取れるのではないか。そう考えて、何十年も遠ざかっていた文学作品を読み始めています。

 ところが、学校や先生や生徒が登場する文学作品は、それこそ無数にあるのです。町をあるけば先生にぶつかる、といわれますが、小説を読めば先生や生徒に出会う確率のほうが高そうです。このことは、資料がない、少ないというのに比べたらたいへん都合のいいことですが、反面、この作業が膨大な作業であることからくる困難につきあたります。
 小説や随筆、回想録といった文章は、書く人、書いた時代、などによって大きく影響を受けますし、そこに書かれている事実は記憶違いやフィクションが当然入っています。それらをどう考えるのかはこれから考えることにして、とにかく手当たり次第に文学作品を読み始めていって、そこで気がついたことをメモしていきたいと考えます。なにしろ小説を読むことをやめてしまってからたぶん二十年以上たちます。見当外れなところがたくさん出てくるはずです。どうかアドバイスをお願いします。なおこれは、前に書いていた「教室の中の近代」の続きのつもりです。
 最近の小説には具体性のある舞台が描かれないような気がします。それは「東京」とか「新宿駅」とかは言葉として出てくるとしても、それは「都会」とか「都心の大きな駅」といった一般名詞以上ではないようです。ところが島崎藤村や田山花袋の作品は、実在の細かい地名が登場してきます。地図でいちいち確認して読めるほどです。夏目漱石の作品はそれほど具体的でないですが、描かれている舞台の固有性は明確です。たとえば、宗助とお米の住む借家は、次のような描き方をされています。

 魚勝と云う肴屋の前を通り越して、その五六軒先の露次とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖で、その左右に四五軒同じ構の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎らな杉垣の奥に、御家人でも住み古したと思われる、物寂た家も一つ地所のうちに混っていたが、崖の上の坂井という人がここを買ってから、たちまち萱葺を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請に建て易えてしまった。宗助の家は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択(えら)んだのである。(『門』)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/785_14971.html

 芥川竜之介などは固有の地名を使っていそうもないかなと思いますが、そうでもないですね。例を挙げるときりがないのですが。

が、東京の町で不思議なのは、銀座通りに落ちている紙屑ばかりじゃありません。夜更けて乗る市内の電車でも、時々尋常の考に及ばない、妙な出来事に遇うものです。その中でも可笑しいのは人気のない町を行く赤電車や青電車が、乗る人もない停留場へちゃんと止まる事でしょう。これも前の紙屑同様、疑わしいと御思いになったら、今夜でもためして御覧なさい。同じ市内の電車でも、動坂線と巣鴨線と、この二つが多いそうですが、つい四五日前の晩も、私の乗った赤電車が、やはり乗降りのない停留場へぱったり止まってしまったのは、その動坂線の団子坂下です。しかも車掌がベルの綱へ手をかけながら、半ば往来の方へ体を出して、例のごとく「御乗りですか。」と声をかけたじゃありませんか。私は車掌台のすぐ近くにいましたから、すぐに窓から外を覗いて見ました。と、外は薄雲のかかった月の光が、朦朧と漂っているだけで、停留場の柱の下は勿論、両側の町家がことごとく戸を鎖した、真夜中の広い往来にも、さらに人間らしい影は見えません。(『妖婆』大正八年)

 いわゆる自然主義文学は「リアリズム」が信条でしょうから、固有の地名が登場し、後世、作品に描かれた土地に記念館などが建てられていたりします。こんなありふれたことは文学の世界では「常識」なのでしょうが、最近の小説を読みだしてびっくりしたのが、この固有の地名が出てこないこと、出てきてもそれは固有名とはとても思えない「一般性」でしかないことが私には一つの驚きだったからです。もちろん今まで読んだ数少ない小説作品でも、安部公房の作品は、いったいどこの話なのか、場所などは全然特定できないものでしたから、そういう作品もあるころはわかっていたつもりです。しかし、そういうカフカ的質の作品でもないのに、「どこの話なの?」ということが一向にわからない。「すみれは神奈川県の公立高校を卒業すると、東京都内にあるこぢんまりとした私立大学の文芸科に進んだ」なんて書き方からは固有性は感じられないのです。この「すみれ」の片思い恋人の「ぼく」は小学校の教員という設定で、小学生を遠足に連れて行き悪戦苦闘する場面も出てきますが、全然リアリティがない。もっともこの小説『スプートニクの恋人』(村上春樹 1999)の主題の一つがが、具体的な固有の領土から切れている現代人を描くことが目的なのは、最終章で、行方不明になった「すみれ」からの電話をうけた「ぼく」が、「すみれ」が「ここへ迎えに来て」といっても場所を聞かないという終わり方であるのでもわかりますが、しかしこれは意識的なのではなくて、もはや固有の土地に生きている人間を、書けなくなっているからではないでしょうか。
 こうした「脱領土化」は、近代の進行の中で一気に始まったのではないでしょう。大江健三郎の作品にでてくる「谷間」は、実在の地名ではなくても、その固有名性は濃厚でした。中上健次の「路地」もそうでした。固有名性をもった地名は、フォークナーの「ヨクナパトゥーファ」にあたる「筑豊」をえがいた井上光晴でもそうでした。しかし、これらの地名は、実在の地名ではありませんでした。架空にもかかわらず固有名性をそれらの作家たちは確保していたし、読者はその固有性を読み込んでいたのです。
 プロレタリア文学の作家たちの作品は、ほとんど固有の地名をつかって小説世界を構築していました。学生時代に黒島伝治の作品を読んで、小豆島まで行ったことを覚えていますが、この頃の作家の作品を読んでも、その作品の固有の土地というものがありませんから、文学散歩などというのは不可能になりましょう。そうではなくて、『スプートニクの恋人』を読んだ読者は、ギリシャに観光に行くでしょう。観光カタログとして近年の小説はよめるのでしょう。「すみれ」の女性の恋人ミュウは、たいへんなセレブですが、在日韓国人だそうです。ぜんぜん在日である必然性はないのに。のっている「車」は「ジャガー」。だいいいち「車」などとは書かない「セリカ」とか「ボルボ」とか書くわけです。パソコンとは書かない「パワーブック」とか書く。
 村上春樹の特長かいな? とおもっていたら、そうでもないらしい。「少し上だが、私に近い年齢だ。彼女の父親だろう。銀縁の眼鏡をかけている。それにヘリンボーンのジャケットにペーズリーのアスコットタイ。四十代後半の男が休日をより休日らしくするためには、そんな方法もあるのかもしれない。」(『テロリストのパラソル』藤原伊織 1995)
 どうも、長いこと小説を読まなかったせいで、浦島太郎的気分なのです。読者サービスなのかもしれないが、わたしには「脱領土化」した人類を、「再領土化」するモノたちを、これらの小説のなかに、ちりばめているように思えるのです。
 さて、私たちの「近代学校」は、藤村の時代から村上春樹の現在まで「学校」という同じ名称で語られてきました。しかし、私たちの感受性は「地名」に関してみても大きな変容を受けてきたのです。当然のことながら「モノ」にたいする感受性も変わってきているでしょう。近年の小説が、登場人物がいったいどこで、どんなところで生きているのか、それを描かなくなっているのは、あるいは私たちの目に見える風景が、均一化し、テレビなどですでにして「既視化」しているためだからなのでしょうか。作家は一から世界を構築しなくても、読者と「共有」できる「風景」が、すでにしてそこにあるからなのでしょうか。
 たとえば学校には名前があります。小学校の名前の多くは地名をつけられていました。京都の小学校はなぜ地名ではないのでしょう? 中学校に第一とか第二とかつけて地名をつけな場合の理由は何なのでしょう。命名は「社会」が学校に名付ける印です。だとすれば、「養護学校」が「支援学校」に変えられたのは、学校の変容を示すのではなくて、「社会」の深いところでの地殻変動を示しているといえないでしょうか。そうした社会の深いところでの変動を実は文学作品が、スナップ写真のように記録しているのではないかと思っています。

写真は下記
http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm

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教室の中の近代(7)『ああ玉杯に花うけて』

『ああ玉杯に花うけて』2007-10-31

 1920年代は大衆小説の興隆期であり、とりわけ20年代後半は少年小説の黄金時代だったと、池田浩士氏が指摘されています(『大衆小説の世界と反世界』1983 現代書館)。佐藤紅緑の『ああ玉杯に花うけて』は「少年倶楽部」の1927(昭和2)年5月号から1928(昭和3)年4月号に連載され、少年たちから圧倒的支持をえた人気連載でした。「少年倶楽部」は昭和2年30万部、昭和3年45万部と増え続け、昭和11年新年号は75万部を発行しているそうです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-kyoudo/1room/hyousi/hyoushitop.htm


 題名は、第一高等学校の校歌からとられたものということから推測できるように、小学校から中学校時代への少年群像を描き出しています。チビ公といわれる主人公千三は、成績優秀でも家が貧しくて中学校には行けず、家業の豆腐屋をやって一家を支えています。街の助役の息子の「生蕃」にいじめられたり、財産家の息子の光一に助けられたりしながら、私塾に通いはじめて、その塾に来ている一高の学生、安場に出会います。チビ公のまえで安場は歌い出します。「ああ玉杯に花うけて、緑酒に月の影やどし、治安の夢にふけりたる、栄華(えいが)の巷低く見て、向ヶ岡にそそり立つ、・・・・・」それを聞きながらチビ公は涙ぐみますが、安場は「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と貧乏生活の中で、塾の先生に導かれながら一高に入った体験を話します。
 田舎の少年たちに、この小説は「立身出世」の階梯としての「学校」の存在を強く印象づける物だったようです。
 中学生たちは学外で派手に勢力争いの喧嘩もすれば、学校内で集団カンニングをしますが、学校の教師集団は、そういう生徒指導を熱心にやっているふうもなく、模範学生の光一が、喧嘩やカンニングを批判したり解決したりしていくというふうに描かれます。生蕃といわれた助役の息子が、学校での暴力のせいで退学になり、親が権力をつかって中学の校長を配転させる場面が設定され、街の「悪」に生徒と学校が一体になって抵抗する姿が描かれます。ここでは学校(モデルは旧制浦和中学、現埼玉県立浦和高等学校)の校長・教員と生徒たちとの「共同性」が完璧に成立しています。学校は、世間の俗悪なるものに敢然と立ち向かう理想に燃えた英雄主義、エリート主義の養成所として機能しています。そうした少年の立身出世の理想主義が、貧富の差への不満を解消する機能をはたします。
 このエリート主義的理想主義が、見事に皇国史観と結びついている様子もはっきりと描かれます。この作品自体が大衆文学の興隆の中にあったにも係わらず、社会主義思想の流れを批判し、「英雄」を賛美する光一の演説を上手に配置します。
 いってみれば下記の演説は、旧制高校ー帝国大学のエリート主義のイデオロギーとして、貧しさのために中学にも行けずに豆腐屋の天秤棒を担ぐ少年にも機能させているのです。ここに描かれている「学校」は、まちがいなく現在の私たちが経験している学校とは、全く別物なのだろうと思います。それにしてもこの小説に描かれる「学校」は見事に機能していた時代の雰囲気を遺憾なく発揮しているだろうと思います。

「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源にあらずんば平であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇ではない、国定忠治ではない、鼠小僧次郎吉ではない、しかもまた尊氏、清盛、頼朝の類ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」

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(2) グーグルとスユノモ

 Google Book Searchプロジェクトというのをご存知でしょうか。図書館の本をデジタル化して世界中の本をネットで読めるようにしようというものです。もちろん世界中の出版業界から著作権侵害の声が上がっていました。
http://current.ndl.go.jp/node/4057
 今年のはじめ、グーグルとアメリカの出版業界が「和解」したようですが、この和解はただにアメリカの出版社とグーグルとの「和解」にとどまらず、例えば『学校の境界』なども2009年1月5日以前の出版ですから強制的に適用されるという解釈にたっているようですね。いかにも「帝国主義国家」アメリカの「法」のありようです。かりにグーグルが『学校の境界』をスキャンしてPDFファイルでダウンロード販売しても、出版社や著作者が「和解に参加する」と表明して請求用紙を送らなければ出版社や著作者に配分される利益はなしなのだそうです。
http://www.googlebooksettlement.com/intl/ja/notice.html
 グーグルがこのようなことを始めたのはグーテンベルクの時代が終わった、終わるであろうという状況判断でしょう。インターネットの普及は本の時代を終わらせるだけではなく、出版業の終りさえも超えて、出版業が取り仕切っている包括的検閲=思想統制・言語統制の終焉をも予測させるものです。出版業によって国民国家が維持管理されてきた「近代」(ベネディクト・アンダーソン参照)の終りに対応すべく、本をデジタル化することで資本主義による包摂を延長させる試みでしょう。
 それが成功するかどうかは未知数です。「本」という形態にならされてきた、あるいは国民の言語(国語)にならされてきた「近代人」は、ディスプレイで読むなどということに「感覚的に」「なんとなく」嫌悪感を感じ、出版文化を守れとばかり、いや著作権保護を!とグーグルを攻撃するでしょう。もちろんグーグルは国民国家や近代人を、そして何よりも資本主義経済を守るためにやっているのですが、インターネットが嫌いな「読書人」にしてみれば、そこらのブログの駄文と一緒に貴重な書籍がデジタル化されるという「ポストモダン」の「革命」には耐えられないというわけです。
 本がその使用価値としてよりも交換価値として、つまり「商品」として扱われてきた、その伝統がいまやインターネットの普及によって崩れようとしているわけです。しかし本の中身の「知」を「交換価値」としてではなく、純粋に「使用価値」として生かす試みは、実はグーグルとは逆に資本主義経済にとって致命的な、あるいは革命的な試みなのです。
 研究空間「スユノモ」にはたくさんの共有されている本がありました。持ち寄ったもの、贈られたものなど様々でしょう。実にアナログな本の共同使用が、ほんとうのところ、この資本主義社会では希少な試みなのです。私たちはそれぞれ「蔵書」をもっていましょう。それらを共有する試みがいかにたいへんな試みであるかは、私たちの習慣を少しでも顧みたらわかるところです。ましていわんや本の中身の「知」の共有の試みにおいてをや、です。

 国家による言論統制に民主主義的近代人ならば反対してきた筈です。発禁本などがあった時代なら国家権力による思想統制は子どもでもわかる事態です。いま、そういうことはないから言論は自由である、と思うでしょうか? 自由に読める書籍がどこにでもあるから言論や思想の自由が守られていると思うでしょうか? 子どもでもこう質問するかもしれません。
 お金がなかったら本買えないのと違う? 本を出したくても出版社が出してくれなかったら? もちろん自費出版するお金もなかったら? 自費出版しようとしたが出版社の人がいろいろ修正を迫ってきたよ、と高校を卒業して小説を出そうとした友達が言ってたよ? 出版の自由てあるの? おじさん!本を出したんだってね。すごいね。でも、それ売れてます? なんだ、売れなくて家に山積みになってるの、それって出版の自由があるって言えるの? ああ、そうか、言論出版思想の自由を制約しているのは今は国家じゃないんだ。出版できるかどうかは金とか出版社の「思想」のフィルタがかけられているんだ。でも、本を出して売れている有名人なんかはたぶん思想の自由や出版の自由は間違いなく今でもあると思っているのだろうね。
 そういう子どもの声に読書人や出版人はどう答えるのでしょうか。「出版業が取り仕切っている包括的検閲=思想統制・言語統制」と書きましたが、その出版業を統制している「売れる、売れない」の資本主義経済に責任を全面的に移すことは妥当ではありません。「こんなこと本(論文)にかいたら批判されるだけではなくて不利益になるかもしれないし、だいいち売れない!」「学会の通説に反することは書きにくい、批判は遠慮しておこう」などという「自由人」がいたとすれば、そのひとは検閲権力を自己に行使しているのです。もちろん、書くな、言うなと他者に向かって言えば、検閲権力そのものです。理論的に「批判」するのは権力そのものではありませんが、意識的か無意識的かを問わず地位を利用して行為を禁止したり、奨励したりすることを正当な根拠をあげずに行うことは権力そのものです。
 岩波書店という「進歩的」だと言われている出版社が、社員の言論活動を弾圧しているということがネットで載っていました。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-19.html
 徳岡さんが紹介している場所で見たのですが、私には佐藤優が国家主義言説と進歩的言説を使い分けていたり、言論弾圧言辞を吐いていることよりも、岩波書店が出版社として自殺的行為をしていることがショックでした。
 こうした事態が進行しているときに、権力を持たない多くの人たちが使えるものがインターネットなのです。もちろん、ブッシュの悪口をメールで書いたら、FBIがやって来たというように、エシュロンといった検閲システムを作動させてはいましょう。グーグルのように出版物をすべてデジタル化することによって、資本主義の社会の実質的包摂を永続させる試みを企てているということもありましょう。強力な「検索」機能は、一瞬にしてネット上での「抗議」署名者の「個人情報」を収集するでしょう。紙の署名簿に書くよりネット上での署名は「危険」なのです。
 余談ですが、以前、研究会のどなたかの紹介で埼玉県の教育委員に高橋史郎を任命するなという署名に名を連ねたことがあります。
http://www.geocities.jp/saitamakyoiku/tekkai2.html
 それからしばらくは「北爪道夫」でグーグルで検索すると、有名な作曲家のサイト(私と同姓同名)が検索上位にズラーと並ぶのですが、教育の境界研究会の北爪さんがでてくるのは研究会のサイトよりも上記のサイトが上位のことが長く続きましたよ。そうです。このサイトへの検索が多いからです。右翼からの嫌がらせメールはありませんでしたがね。徳岡さんの紹介のサイトにも署名しましたぜ。「教育の境界研究会会員」て書いたから、この研究会のどなたかが岩波書店から本を出したいと言っても岩波は出してくれないかもですよー。悪いことしたかな?!
 実際のところ、現在、普通の個人が、組織も金も権力もない普通の個人が、出版社や国家や様々な関係的権力から逃れて意見を表明できるのはネットしかないのです。しかも、一層重要なことは、個人が他者と利害関係から自由な〈共(コモン)〉を形成する可能性を手に入れられるのです。個人の思考は他者たちと結ぶことによって集合的な知へと発展する可能性を持ってきます。グーグルやヤフーの「検索」は国家の治安担当者や「2ちゃんねらー」だけが使っているのではないでしょう。ネット上の「知」は出版人や「読書人」からみたら、ガラクタのたぐいだとよく言われます。ガラクタもあるでしょう。「本」や学会誌や論文集のなかに言論の自由があった、なくなっているなら再建しよう、というのは悪いことではないでしょうが、本は金がないと読めない出せない、出版社は言論弾圧までして営業を続けようとする、売れない本は出せないということにたいしてどのような対抗策があるのでしょうか。
 スユノモは、ある意味では「近代」の理念に忠実です。お金もないから本も持ち寄ろう、「知」を共に築こう、知らぬ他者たちと出会う場を作ろう、ネットも十二分に利用しつつ、具体的に他者たちが出会う空間を作ろう、というのですから。グーグルはかつての百科全書派のように世界知を収集して、それを管理することで知的支配管理と「商品」販売をリンクさせ「一者」による支配を永続させようとします。書物による支配管理が崩壊してゆく世界の後継支配組織をグーグルは企てます。スユノモはそうしたネットワーク世界をも大胆に利用しながら、アナログな対面的世界を社会大の「友たち」の世界にしようと実践を積み上げようとします。言ってみれば「一者」とマルチチュードの対決なのです。


参考
【新聞記事】
「グーグルの著作権独占、各国は対抗を」 国際ペン決議
2009年10月23日
 米グーグル社が進めるデジタル化した書籍の全文検索サービスとその訴訟の和解案をめぐり、国際ペン(本部・ロンドン)は22日、グーグル社による著作権の世界的独占に対抗するよう各国政府に求める決議を採択した。ドイツが提案し、日本、フランスなどのペン代表が賛成した。米国ペンは棄権した。 決議では「この和解案が裁判所に認められた場合、集団代表訴訟(クラス・アクション)として全世界の作家を拘束し、作家の権利を侵害する。本のデジタル化に関する、グーグル社の行為は受け入れがたく、世界的な著作権法の原則に合致しない」としている。

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(12)教育の境界研究会の文脈は?

 全共闘運動のなかで丸山真男が批判されているとき、私は在籍している大学でも盛り上がっている全共闘運動を常に丸山の著書を手がかりに理解しようとしていた、ということは前にちょっと触れました。鎌倉仏教の周辺を勉強していたのですが、思想史研究でしたので丸山の『日本政治思想史研究』からはいって丸山の『現代政治の思想と行動』などに圧倒されていました。しかし、丸山は「近代主義者にすぎない」という批判はそれから長いこと、ポストモダン思想の流行の間も続いていましたから、『忠誠と反逆』なども読みましたが、そういう世の評判に引きずられて、もうほとんど読まなくなっていました。実を言うと、日本思想史の勉強でしたので、和辻哲郎の『風土』とか『日本精神史研究』などや、津田左右吉なども読んでいたわけです。そういう人たちの名前を聞かなくなってどのくらいがたつでしょうか。
 ところが、最近はどういうわけだか昔のそういう人たちが、なんか復活(?)したように、それも「右」からではなく「左」から復活したかのように再登場しているように思われてきます。あまり雑誌も読んでいないので「復活」とまでは言えないのかもしれませんが、孫歌という中国社会科学院の研究者が『思想』に2回にわたって近代日本思想史を俯瞰する刺激的な論文(「アジアとは何を意味しているのか」6月7月号)の中で和辻が読み直されているのに驚き、『思想』の8月号の丸山真男特集では柄谷行人が「丸山真男とアソシエーショニズム」という論文を寄稿していて、丸山真男を柄谷のいうトランスクリティークの批評家として評価し、結社的紐帯の希薄な日本の近代の欠落を指摘した論者として和辻も評価しているのにはびっくりしました。孫歌の論文や柄谷の論文が教えてくれたのは、私が学生時代に、自分の家や地域の中で「敵」として感じていた、その当時の言葉で「半封建制」といわれていた「日本的」事態が、少しも変わりなく、そのまま今でも私たちの目の前にあり続け、それを課題とも感じていないという現実です。
 柄谷はポストモダンの理論家ではなく、ここではいわば「近代主義者」になっています。アソシエーションの連合の運動をNAMの創出ではじめようとして、柄谷は失敗してしまいました。柄谷はすでに1984年には丸山真男を「近代主義者」として片付けるのは間違いだということに気づいていたといっていますが、丸山がぶつかった日本の「古層」に、実践的にもぶつかったのはNAMにおいてではなかったでしょうか。
 柄谷がえがくアソシエーションは、全共闘運動になにほどか重なってくるように思っています。しかし、指揮命令系統が確立している「党」的なアソシエーションを発想する伝統的な思想によって、全共闘もNAMも敗北していったのではないでしょうか。柄谷は丸山を引用しながら次のように言います。(《 》内は丸山の文章)

 《日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。…イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているに過ぎない。イデオロギーの終焉もへちまもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。…》
 このように、丸山真男は一方で、経験論的でリアリスティックな態度をときながら、他方で、その反対に、思想や原理の優位性を説いている。丸山は、どちらが優位であるとか、あるいは、それらの「総合」が必要だともいわない。ただ、自分の属する文脈が思想を軽視するようなところでなら、思想を重視するだけのことである。「人を見て法を説け」というのは、そのことだ。だが、このような態度はわかりやすいものではない。というより、むしろ誤解されるに決まっている。

 このような態度を柄谷は《批評》といっています。それは、その場に応じて、その場にあわせて批判的なことをいう「相対主義」的態度とはちがいます。相対主義は、丸山が「無イデオロギー」と批判している精神風土の産物です。全共闘運動はそうした風土へのあらがいであったのだろうと思いますが、それがイデオロギー的な秩序の産物だったという否定的総括からは、相対主義が生まれてくるのです。小林秀雄がプロレタリア文学を評価した後に、本居宣長に回帰していった道程と同じように、全共闘運動の参加者のいくらかはその総括行為を通して、「近代」を欠落させた日本的近代に回収されていったのです。
 さて、教育の境界研究会は、いまどこを流れ、どちらのほうへ行こうとしているのでしょうか。いや、流されているのではなく、方向をコントロールしているのだ、と言えるでしょうか。

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教室の中の近代(6)『防雪林』

教室の中の近代(6)『防雪林』2007-10-22

 1929年『蟹工船』を発表した小林多喜二は、北海道拓殖銀行を解雇され、1930年に上京。治安維持法違反容疑で5か月間収監されます。翌1931年に日本共産党入党し、この年の12月、以下のような文章を書いています。その全文を掲げておきます。


先生。
 私は今日から休ませてもらいます。みんながイジめるし、馬鹿にするし、じゅ業料もおさめられないし、それに前から出すことにしてあった戦争のお金も出せないからです。先生も知っているように、私は誰よりもウンと勉強して偉くなりたいと思っていましたが、吉本さんや平賀さんまで、戦争のお金も出さないようなものはモウ友だちにはしてやらないと云うんです。――吉本さんや平賀さんまで遊んでくれなかったら、学校はじごくみたいなものです。
 先生。私はどんなに戦争のお金を出したいと思ってるか分りません。しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです。それだのに、お父さんにお金のことなんか云えますか。でも、みんなが、み国のためだというのでこの前、ほんとうに思い切って、お父さんに話してみました。そしたら、お父さんはしばらく考えていましたが、とッてもこわい顔をして、み国のためッてどういう事だか、先生にきいてこいと云うんです。後で、男のお父さんが涙をポロポロこぼして、あしたからコジキをしなければ、モウ食って行けなくなった、それに私もつれて行くッて云うんです。
 先生。
 お父さんはねるときに、今戦争に使ってるだけのお金があれば、日本中のお父さんみたいな人たちをゆっくりたべさせることが出来るんだと云いました。――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。
 先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにして下さい。そしたら、お父さんやみんながらくになります。戦争が長くなればなるほどかゝりも多くなるし、みんながモット/\たべられなくなって、日本もきっとロシヤみたいになる、とお父さんが云っています。
 先生。私は戦争のお金を出さなくてもいゝようにならなければ、みんなにいじめられますから、どうしても学校には行けません。お願いします。一日も早く戦争をやめさせて下さい。こゝの長屋ではモウ一月も仕事がなければ、みんなで役場へ出かけて行くと云っています。そうすれば、きっと日本もロシアみたいになります。
 どうぞ、お願いします。
 この手紙を、私のところへよく話しにくる或る小学教師が持って来た。高等科一年の級長の書いたものだそうである。原文のまゝである。――私はこれを読んで、もう一息だと思った。然しこの級長はこれから打ち当って行く生活からその本当のことを知るだろうと考えた。〉(『級長の願い』「東京パック」1932(昭和7)年2月号)
 

 こういう「生徒の手紙」やそれを持ってきたという「或る小学校教師」が実在していたかどうかは別にして、多喜二が学校の教員ならびに学校にたいして全否定的イメージを抱いてはいないらしいことは、この文章や、小説『防雪林』に登場する校長の描きようを見てもわかります。
 1926年からはじまった北海道の富良野農場での小作人たちの地代減額闘争は翌春には勝利していました。多喜二は1927年から翌年にかけて、石狩の平原に生きる貧農たちの、対地主闘争を『防雪林』に描いています。そのなかで、村の小学校の校長を次のように描きます。

 小學校の校長は、三十七、八の、何處か人好きのしない、澁面の男だつた。校長でもあり、訓導でもあり、小使でもあつた。教室は二十程机をならべたのが一室しかなかつた。一年から六年生迄の男の子も女の子も、そこに一緒だつた。教室には地圖もかゝつてゐたし、理科用の標本の入つてゐる戸棚もあつたし、(その中には剥製の烏が一羽ゐた。)白い鍵のはげたオルガンが一臺隅つこに寄せてあつた。校長は坊主を一番嫌つた。この先生がどうしてこの村へ來たか誰も知つてゐなかつた。そして又澁顏をして人好きが惡かつたが、「偉い人」だ、さういふので、尊敬されてゐた。市の小學校で校長と喧嘩したゝめに、こんな處へ來たのだとも云はれていた。先生の室――それは、その教室から廊下を隔てゝすぐ續いてゐた――には、澤山本が積まさつてゐた。
 源吉は、先生に、「坊主歸りました。」と云つた。先生は顏をふむ! といふ風に動かして、「さうか、肥溜の中へでも、つまみ込んでしまへばよかつたのに。あれが村に來る度に、百姓がだん/\半可臭くなつて、頓馬になつてゆくんだ。――畜生。」と云つた。

 地主に小作料の減額を要求するための寄合は、小学校で開かれます。

 話がかうしてゐるうちに纏つて行つた。源吉は誰からとなく、校長先生が裏に廻つてゐる、といふ事をきいた。所が、同じ村のある百姓が、地主のために、立退きをせまられてゐるといふことが出來上つてから、急にさういふことが積極的になつた。
 川向ひから、若い男がやつてきた。自分の方も一緒にやつた方が、地主に當るにも都合がいゝといふことを云つた。日を決めて、一度、小學校に集つて、其處で、どうするか、といふことを打ち合はせることにした。
 その日吹雪いた。風はめつたやたらにグル/\吹きまくつた。降つてくる雪は地面と平行線になつたり、逆に下から吹き上つたり、斜めになつたり、さうなるとすぐ眼先さへ、たゞ眞白に、見えなくなつてしまつた。それで道から外れると、膝まで雪の中にうづまつた。雪は外套のどんな隙からでも入りこんで、手の甲や、爪先などは、ヅキン/\痛んできた。小學校へは、遠い家は小一里もあつた。

 この校長先生は、農民たちを啓蒙し、小作闘争を支援するオルガナイザーとして描かれているのです。
 主人公は源吉という貧農で、小作闘争は地主と警察の弾圧で敗北し、復讐のために源吉は地主の家に放火するところで終わっていて、校長がどうなったかは描かれていません。多喜二はこれを書いたあと、なぜか発表しませんでした。そのあと多喜二は、1933年2月20日に治安維持法違反容疑で逮捕され、東京・築地警察署でその日のうちに虐殺されてしまいます。29歳でした。
 教員が、当時どんな役割を国家から割り振られていたのか、多喜二が知らないはずはありません。にもかかわらず多喜二は学校の先生に、なにがしかの希望を抱いていたのだろうと考えます。逆に言えば、「左翼」は「先生」を、その啓蒙主義的な姿勢のゆえにか、はたまた「民衆」の生活を知らざるをえない位置にいたためなのか、自分たちの側に、より多く近づけて見すぎてしまったといえるでしょう。こうしたある意味で甘い見方を、戦後民主教育は、「先生」の側から引き継いできたのかもしれません。

* 写真は下記より

http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=117&CGISESSID=6b275423d8c32136445019a6242171fd

*次の論文を参照しました。
「[防雪林]の芸術創作について」韓玲玲(東北師範大学院 日本研究所日本言語文学専門)
http://www.takiji-library.jp/announce/2007/2007030905.html

*引用はすべて青空文庫。
http://www.aozora.gr.jp/

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教室の中の近代(5)『風と光と二十の私と』

(5)『風と光と二十の私と』 2007-10-18

 1925年から1年間、坂口安吾は世田谷下北沢の荏原尋常高等小学校の分教場の代用教員をしていました。坂口安吾20歳の時のことでした。五年生70名を担当したその時の経験は、1948年の『風と光と二十の私と』にあざやかに描かれています。

 彼は、この自伝的エッセイの最後に、「教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」と結んでいます。いわば「優秀な」教員として充実した生活を送っていたことを、後年ふりかえってそのように述べているのです。
 彼の「先生」ぶりはこんなふうです。

 先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。
 特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却って安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。

 元教員が、自分の教育実践を自慢げに語っているような文章と少しもちがわないようにも見えます。なぜ教員のような仕事が自分にできたのか、彼は自己分析します。「誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないか」と。そこから人は「堕落」していくのだろうと。「私は当時まったく超然居士で、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようと」心がけていたからだと。「先生」はいわば老成していないとできない仕事なのだということでしょう。「老成」という言葉を坂口安吾は、決していい意味で使ってはいません。「老成の空虚」に、その時自分は気づかないままに、教員の生活に満足してしまっていたという風に総括しているのです。

 牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。
私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、
「先生、叱っちゃ、いや」
彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。
「ああ、叱らない」
「かんべんしてくれる」
「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」
彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。
 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。

 坂口安吾は、発達論の常識に反して、青年から成人に至る一時期に、後の大人時代にはない「成熟期」に達することがあるのではないか、といっています。若い教師や学生たちの発言の中に、私が何十年の経験の中でやっと到達できたと思ったことを、いとも易々と発言しているのを時に耳にすることがありますから、そういう風にも考えられるなと思いました。しかし同時に、実のところ「老成」を達成しているのは「教育」という仕事や「教育」という考え方が、青年を「老成」させていくのかもしれないのです。
 坂口安吾は、『教祖の文学』(1947年6月「新潮 第四四巻第六号」)で、小林秀雄を徹底的に批判しています。

 だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退ッ引きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。
 生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。
……小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。

 自分の人生を、喜んだり悲しんだり苦しみながらこしらえるのではなく、本質を見ること、見抜くこと、あるいは人生はこういうものだと諭すこと、先例やお手本にならって「芸術作品」の鑑定ができるようになること。そういうことができる小林秀雄はいってみれば「老成」「成熟」した「先生」といえるかもしれません。「老成の実際の空虚」を、安吾は小林秀雄の評論に見ていたのでした。
 安吾が『風と光と二十の私と』で展開しているのは、実のところ近代学校批判なのではないでしょうか。しかしそれは直接的な批判の仕方ではなかったのです。物語的に語られるところは、立派な教育実践記録とも読めます。しかしそうした自らの実践の傍らに、それを可能にした「老成」の「空虚」を並べるのです。安吾は「教育」や「学校」について積極的に語っているのではありません。「文学」というものは、実人生に根を下ろして生成するのであって、文学作品の「鑑賞」のなかで悟りを開くことを目的にしているわけではないと言っています。
 『文学のふるさと』(現代文學 第4巻第6号 1941年8月号)で、安吾は芥川龍之介を引きながら次のように「突き放される」経験が文学のふるさとだと説いています。「学び」のふるさとももしかすると、こうした「突き放される」経験のなかにその原型があったのに、「学校」制度の「改革」によって、「わかる授業」の展開のなかで、すっかり消えてしまったのかもしれません。ちょうど、文学が文学教育や国語教育の発展の中で衰退し、「無常ということ」の字句の解釈が入試問題になり、文芸時評が地盤沈下していったように。

 晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
 さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
 この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
 ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。

*引用はすべて青空文庫。
http://www.aozora.gr.jp/

写真は
http://f.hatena.ne.jp/hugo-sb/20070411140626

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(11)研究会の知識マネージメント

(11)研究会の知識マネージメント
 教育の境界研究会の活動の諸場面のなかで、いちばん生産的で刺激的な場面をあげるとすれば、例会とか合宿における議論の場であると私は確信しています。会報や年報を読んであらたな心躍るような気づきがおこることはあまりありませんが、例会などではいつも何かに気づかされます。ところが、そこで議論されたり問題になったことを記録したり、まとめたり発展させる、ということがなかなか難しいのです。その作業の一部は例会の感想に反映されているのでしょうが、「やー、もっといろいろ話になっていたのになー」と思うのです。
 例会の感想の書く時に、その例会での他者の発言を正確に引用して、他の発言とのズレや応答をふまえて自分の考えを書くという作業は、とても困難なので(そういうかまえで参加していないことが原因の一つでしょうが)感想はつい自分の独断と偏見で書いてしまうのです。ましてや、そこでの議論の場を作っている暗黙の了解や共同的な思い入れなどを検討する、などというレベルには達していません。さらに、当日の議論と関係のある文献データを参照して、議論されたことをさらに超えるような「まとめ」を書くというようなことは、とてもできそうもありません。
 ところが、「知識経営」を企業戦略の核だとする企業、とりわけIT関連企業など「知識が製品の中心」である企業では、上記のようなことを実行しているのだそうです。決められたルールとか知識、情報を機械的に配合して、上から命令されるのを下はこなしているだけだ、というイメージで企業活動をかんがえるのは間違いなのです。会社を構成する成員のなかに「埋もれた知識」がある、そういうのを共同の討議の中で発掘するようなことをやっているそうです。『知識経営のすすめ』(野中郁次郎・紺野登 ちくま新書)の読みかじりですが、マイケル・ポランニーなどをふまえて「暗黙知」をどう経営に生かすか、なんてかんがえるんですね。ですから、わが研究会もいい線までいっているのに「つめ」が甘いんでしょうね。
 しかし、それだけではなくて、「知識」は個人が生み出し個人が所有し、オリジナリティを「主張」するには「著作権」を守らなくては・・・・・・・・などという「知の所有」イメージに必要以上に縛られている、というところに一つの原因があるように思います。発言はいったそばから消えていきますので、まあ、思いつきでしゃべることができます。でもMLも含めて文字での発言となると多くの方は「構える」。発言の責任とかオリジナリティとか独創性とか、先行研究とか、諸々のことをかんがえるのでしょうか、慎重になるひとが多いですね。私もそういう考えがないではないですが、MLに書いたことになんらかのオリジナリティがあるとか「所有」に値するとかは思っていません。ほんとうは、MLでも近似的にですが、例会の知的雰囲気は作り出せるのだろうと思いますが、文字化にたいする心理的ハードルがそこに作用してしまいます。
 「知識」企業は外に向かっては「著作権」をうるさくいいますが、その会社内では、「個人」の知的所有権などなきがごときです。会社の活動の中で生まれた知識は、そこでの共同作業でうまれたのだから、たとえ明確に個人が出したアイディアや発明でも、それはその個人に属するのではなく会社の「所有」である、という論理でしょう。その論理は知の生産の場の力学からいえば真理に近いでしょう。ところが知的生産は固有名つきだ、という近代の伝統的発想が、物を書くひとにはついて回ります。ですから「研究会」の論文集などはたいてい固有名がつきます。共同研究にしても固有名詞がならんだ論文集になります。これでは企業の知識マネージメントに勝てるはずはないでしょう。

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