(4)議論などしてはならない

 「スユノモのメンバーは議論をしていなかった」と言う印象を受けました。あちこちで勉強をしたり、談笑をしたりしていましたが激論を交わしたり論争をしたりしているような雰囲気は感じられませんでした。
 スユノモにいた期間はごくわずかであるし、いわば客人ですから、○○ということはスユノモにはなかった、という言い方はほとんど想像の域を超えない報告になってしまうのですが、論理的に考えると、確かに議論をしていないのです。
 高美淑さんにはお会いできていないのですが、この方がスユノモのルール(「痕跡を残すな」など)が守れていないとき雷を落とすらしいですが、それは議論ではないわけです。勉強をしている共同体なのだから、さぞかしまじめに議論をし厳格に共同体の方針を決めているだろうとおもうのですが、どうもそういう感じではないのです。高美淑さんは書いています。

一般に共同体といえば理念と世界観を共有するまじめな集団であると考える。しかしながら厳格さとまじめさは共同体の致命的な弱点である。そういう共同体は内部的には位階が作動するようになり、外部に対しては境界が鮮明で停滞するほかないからだ。どんな種類であろうと、どんな記憶をもっていようと私はコミューンが生きて動こうと思うなら「ユーモラス」でなければならないと思うのである。笑いこそが日常の祝祭を作り出す基礎であり、コミューンの原動力であるからだ。(「ノマディズムと知識人共同体のビジョン」『歩きながら問う』)

 そういえば、私たちが訪れて、報告などをしてときも、スユノモの人たちは話し合いの中で、よく笑っていました。
 運動団体などからスユノモはどう見られていたか、今政肇さん(スユノモのメンバーで、通訳をしてくれた方でした)はこう書いています。「運動圏の一部からは社会運動よりも仲間うちだけで楽しく生活しつつ知識を弄んでいる奴らと見られることがあったようである。」(「歩きながら問う」)と。
 ところがそういうスユノモが移住労働者の滞在・労働権闘争、障害者の移動権闘争、韓米FAT阻止闘争の運動に接続していく。普通、こうした「運動」に連なるときには「組織内」で議論を尽くして「決定」に至るものでしょう。ところがそういう運動への接続は「縁」なのだとコ・ビョングオン氏はいい、今までなぜやらなかったのかという今政氏の問いかけにイ・ジンギョン氏はコミューンの運営で手一杯で余裕がなかったから、と答えたといいます。
 つまり、誰かが提起して組織内議論をして、あるいは「運動すべきだ」という倫理観で、社会問題・政治問題にコミットする、という通常の進歩的・革新的組織のありようとはぜんぜん違うわけです。ですから、セマングム反干拓闘争などの闘争としてスユノモが取り組んだ、セマングム干潟からソウルまでの400キロを歩く「大長征」へのスユノモのメンバーの参加形態は、それぞれの自由だったわけです。そこには左翼組織が持っていた参加メンバーへの組織統制のもつ致命的欠陥を乗り越えようとする慎重な思考があったのです。そうした「運動」をしていてもスユノモは運動団体ではない、研究者の共同体だと今政さんは言います。
 日本のサークルや運動体では、サークル・同好会なのか、運動体なのか、という「議論」を倦むことなく「議論」して果てがなかったでしょう。ちょっと「運動」的なことを誰かが言ったりすると、サークルが好きな人が警戒して「運動体にしてはならない」と反発したり、サークルを「運動体」にしようと方針提起して、賛同者が多数になれば運動体にできると思って「理論闘争」に熱を上げたりする。そういうことをスユノモは慎重に回避してきたわけでしょう。
 そうしたスユノモのありようのなかに「決して議論をしてはならない」というドゥルーズの声が反響しているように思うのです。

 私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もよばない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体化している。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「君の話は面白くもなんともない」とは言えませんからね。「それは間違っている」と言うのなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。重要性がないのはさんざん言い古されたものだからにほかならない。
(中略)
そして哲学とは、厳密な意味で、議論とは何のかかわりももたないものなのです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものなのか、そして問題はどのようなかたちで提起されているのかを理解するだけでもいいかげん苦労させられているのですから、その問題を豊かなものにするだけでいいのです。問題の条件に変化をつけ、補足し、つなぎ合わせることが求められているのであって、けっして議論をしてはならないのです。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』P.217 P.233 河出書房新社 1992)

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