「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言

「北摂解放教育研究会」の方向転換への提言

1988.5 『教育解放通信』第1号

北爪道夫

1 霧のなかの原点<解放教育>
 教師という衣装や、解放教育という帽子やらを取って、ひらたく、生の人間になって、つらつら己のかゆさの所在を考えてみる。どこが痛んでいるのか、どこに疥癬がすくっているのか。確かに<教育>という身体があえいでいる。しかし病巣の所在が見えてこない。教師としての日常の行為が病んだ身体の病巣の一機能に、いつでも回収されてしまう。ふりあげたつもりの手が、<教育>の従順な機能にくり込まれて、敵の手に変身する。ふと気づくと、“有能”な教師という自認あるいは他認のなかで安住している自分がいる。学校を、教育を変えなければ、という原初のエネルギーが自分のどこにあるのかと自問しなければならないところにまで追い込まれている。
“進歩的”教師が戦後一貫していだきつづけてきた教育をめぐる構図は、今もあるだろう。民主教育を守る現場に自分たちが存在し、これに敵対する反動勢力が、たえず民主教育に攻撃をかけてくる、といった構図である。こうした構図は権力を軍事的・政治的にしか見られなくするとともに、“民主教育”の現場や、そこでの自分に対する分析批判視力を弱化させる。
 <解放教育>は味方としてくくってきた“民主教育”の内側に敵を発見した。敵は外側にだけあるのではない、敵は内側だ。敵は自分の行為・意識・思想・感性だ。そういう発見が<解放教育>の出発点にあった。その限りで<解放教育>は、民主教育対国家権力という単純構図にゆさぶりをかける射程をはらんでいた。<解放教育>は権力の包括的戦略の外部たりえていた可能性もあっただろう。「北摂解放教育研究会」が、その外部として戦いのエネルギーを結集しえていた時期があったろう。十数年の活動をふりかえって、そう思う。しかし、今は確実にそうではない。北摂解放研に限らない。<解放教育>が権力の外部たりえなくなってしまった。<解放教育>は闘いのエネルギーの結集点、ベースキャンプたりえなくなってしまった。敵は、<解放教育>の毒を、いまや完全に抜き取り終わっている。言いかえれば、<解放教育>によっては、学校を、教育を、社会を、政治を、変革することはできない、ということである。
この敗北の総括ができていないから、“情勢”や実践の“力量”の責任としてお茶をにごしてすましてきた。ただし、<解放教育>と言っているのは、常識的に流通している---明確に言えば部落解放同盟によりそうところの<解放教育>のことである。私の学んできた解放教育、豊かな遺産をのこしてくれたかっての兵庫の解放教育運動のことではない。
情況を明確に言おう。兵庫の解放教育運動から<学校解体>の思想を抜きとって、教育を社会・政治から隔離した中性的営為としてとらえる戦後教育思想と妥協をはかった<解放教育>を、この学校化社会に定着させようとして、それさえ、ままならなくなったのが、現在の<解放教育>である。兵庫解放研が持っていた、教育そのものを権力装置として感受する感性がここにはない。「民主教育-国家権力」の構図を再生させて、「解放教育-国家権力」としゃべっているにすぎない。
 しかし、そう言い切ることのためらいの中にいる自分もあるだろう。かって進歩的文化人や左翼が、革命ロシアにたいして感じてきた同伴性を、我々は部落解放同盟に対して一定もってきたし、今も各人に程度の差はあれ、存在するだろう。だが、同盟に対する批判を我々が今もつとき、それは内側からの批判にとどまりえるのだろうか。
そればかりではない。<解放教育>に対する我々の同伴性は複雑たらざるをえない。だが、革命的あるいは進歩的教師の軸に<解放教育>がいまだなり得るのか。そういう反省はあっていい。そういう議論こそ立てられるべきである。自立、自前の運動の伝統を、北摂解放研は誇ってきたはずなのだから。
今や、<解放教育>の看板を検証せずに、我々の研究会は持続しえない。

2 “実践主義”を超えて
 教師の現象学とか、教師の文化人類学とかいうのを誰かはじめてくれないかなあと時々思う。奇怪な相貌があらわれてくるに違いないのだ。我々の職場に流通している管理ファシズムとの闘いの武器=理論装置は、いまだゼロにちかい。私の予断と偏見によれば、山本哲士氏などの東京発、反学校・反教育の理論は総じて兵庫の解放教育運動を素通りして理論形成しているかぎり生産性はないだろう。解放教育運動の嫡流たる北摂解放研にこそ、閉塞した教育を解放する理論的・実践的潜勢力があると私は信じている。
 しかし、その潜勢力をひきだすために大きな壁があるだろう。<解放教育>の総括をはばんできた壁だ。それは一人一人の中にある“実践主義”のことだ。
 教師というのは、“好い生徒”の成長した先の姿だろう。これはよく言われていることだ。だから“出来の悪い”子どもが見えないと。しかし、それだけではない。与えられた秩序の中、あるいはその合理的延長の枠の中でしか思考しないし、行動しない。優等生のパターンである。自分の行為の正当性を常に求める。「私」の行動は、どのような教育的意味を持っているのか、ということを常に考える。「私」のよりどころを既成の秩序(“反体制”の理論もそうだ)にもとめる性向が強い。踏みはずしをしない。説明のつかない飛躍をしない。自分の思考・行為の枠から出ようとする冒険心がない。賭の精神がない。 ところで、論証抜きで言えば、「教育が生まれる元の場所」(鶴見俊輔)というのは、生身の人間と生身の人間の相互飛躍の交流の場だろう。人と人との関係、コミュニケーションの成立の場は賭の精神があって成立する。交通不可能性を突破するのは拒絶を超える精神の賭だろう。合理的・論理的説明にいつでも自分を依拠させようとする教師の性向は、教育の場にある危険な賭、自己飛躍への精神の自由を失いがちになる。自分の実践のパターンから抜けられない。精神の自由さ、軽やかさが無い。解放教育派の教師のからだはガチガチじゃないか、それで何が解放だ、と批判して福地幸造をやりこめたのは、つるまき・さちこだったことを思い出す。
解放教育が、いや教育が衰弱の床にあるとき、新たな闘いを組み立てようとするとき、それは危険な“踏みはずし”を何度も重ねなければならないだろう。そのためにはどんな常識・思想・実践にも特権を与えない自由な批評精神が必要なのだ。
 しかし、<解放教育>が自ら総括しえない症状の根は深い。勿論、総括の試みは以前から、各人によってなされてきたろう。しかし共同の総括ができない。衰弱の原因をめぐっての総括が散乱する。ちらばったまま交点が持てない。<解放教育>の理念は健在だという総括もあるだろう。臨終の床なのか、昼寝の余裕なのかもわからない。要するにその判定の場さえ持てない。これこそが衰弱でなくて何であろう。
 だが、こうしたわれわれの決定的弱さは、我々の自立、自前性の証明でもあるのだ。党派性に心身をゆだねている者は、情況とは別に、いつでも元気、いつでも同じ総括なのだ。今日の情況は、教師に限らず、我々が自らの位置をはかれないところにある。こうした今日の混迷の核心に、素手のままさらされているからこその衰弱なのだ。北摂解放研を、解放教育を、総括することはしたがって、今日の困難の中心に切り込むことになるのだ。一人一人が黙って私的に総括するのではなく、共同の総括に至ろうとする意志の共有にこそ総括そのものがある。解放教育は党派性ではない。そうであれば、八方に散っている私的総括を出し合い、火花を交わし合う場が成立するはずだ。そこから解放教育は、その思想的実践的遺産を「教育解放運動」に開示してくれるだろう。

 誇りうる教育実践を重ねてきたということは、現実を見すえ、それを突破するために、常に武器になるとはいえない。経験が手枷足枷になるということがある。習性に引きずられて、「いま・ここ」が見えなくなることがある。教師として自信を持ってくるということは良いことだ、とばかりは言えない。教師としての成熟によって見えなくなることだってある。自信と成熟は疑うことを忘れさせる。疑うということは、自分の規準にもとづいて、他を疑うことではない。自分の規準を疑うことを疑うという。<解放教育>がなぜ総括をなしえないのか。それは共通の自明の前提を「疑う」ことができないからである。
 そうした自明の前提の一つに“実践主義”があるだろう。<解放教育>の総括を阻んできた壁だ。勿論、自らの実践をもって教育を語らなければならないという信仰は、一人解放教育の占有信仰ではない。教師ほど実践を語りたがり、実践を語ることによって教育を語ったと思っている人間も少ない。学校保健研究会の全国大会などでは、たとえば、音楽にあわせて、生徒全員が各自の分担場所を、秩序正しく掃除していくという“実践”が語られる。生徒がサボルこともなく、喜んで楽しく掃除するようになった!“教育実践報告”は効果から組み立てられ、所定の結果を生徒に引き出すための教師の働きかけの磨き上げの理論の反復である。生徒が、教師の働きかけによって、どのように期待する姿に変わっていったかの報告が実践報告である。したがって教師の行為の意味は生徒に現れる効果の意味から規定される。教師のこうした実践主義は安易な操作主義的人間か観を磨きあげてしまう危険性をはらんでいる。
 この教師の“実践”概念が対象としてとらえるのは、個体に制限された個人、あるいはその集合としての集団である。教育実践は個を目指す。したがって、働きかける教師の主体の、働きかけることによる変容、自己形成は、自らの視野に入ってこない。人間を個体あるいはその集合としてとらえる以上、働きかける教師という主体は、いつでも均一でノッペラボウで変容することがない。いいかえれば実践主義は教師の自己形成をマヒさせる。<解放教育>は、こうした教師の不動性・ノッペラボウ性を自己批判するところからはじまったはずではなかったろうか。だが、<解放教育>は教育の実践主義の伝統をまっすぐ受けついだ。
 教師の実践報告は、猥談に似ている。自分の閨房での実践を微細に組み立て、いかに相手を変容させたか、それはどのような行為によってか、なんてしゃべれば、少年少女はすぐ感動してしまう。そういう実践報告の水準以上の教育実践報告は、そんなにあるものではない。教師の実践報告のそうしたイカガワシサをそのものとして非難する気はない。かわいらしいといってもいい。しかし重大なのは、この実践主義は総括を糞づまりにする機能を持つことだ。
教師は“実践”によって教育を、子どもを語るべきだ、という堅い信念は、実践そのものの総括、“実践主義”を支えている思想・意識・感性への内省を理論的に思いっりひっぱってみることにブレーキをかける。失敗の原因は、自己の力量不足であるか、子どもの質であるか、反動の攻撃であるか、とにかく己の実践の枠組みの外にもとめてしまうから、より一層の“実践”へという形の、総括作業をすりぬける総括に流れこんでしまう。
 実践主義は、自らの思想的枠組みに攻撃がむかわないような装置をそなえている。性の深淵なるものがわからないのは、自分の実践のいたらなさのせいであるという総括を引きだしやすいが、性の深淵なるものを総括する方向にむかわないのが性談の常であるように。
 実践主義は、総括されないために教育がセットした権力装置なのだ。近代の教育制度は人間を「社会的諸関係の総体」とか「過程」としてみるのではなく、分類され、規格化され、他と明白にちがう個性として、記述されるべき個人としてとらえ固定する。ある生徒個人についての教師それぞれの見方を集積して、明確な統一的個人像をつくりあげる。そうしなければ統一した指導などできない、という。ある教師の見方がその生徒についての見解の多数意見とちがっていると、それは排除される。常識的に言おう。イヤな教師に向ける顔と、好きな教師に向ける顔はちがう。どちらが本当の○○君か、という特定作業で、個人を確定しようとする。そうして出来あがった個人指導カードなるものは「豚の糞」なのだ。その生徒にとっての、あれこれの固定は、その生徒の過程から生みだされた、いわば使用ずみの糞なのだ。教育制度は「個人」を生産する機能であり、教師の実践主義はそのイデオロギー的表現である「個人」を生みだす実践主義は、教師を「個」にかえす。己の“実践”のいたらなさを反省して、責任とって教師は黙す。これが教師の美学。権力装置としての教育が見えない私小説愛読者たる教師の悲惨の美学だ。

 実践主義は、さらに重大な欠陥を持っている。いま与えられている秩序の内からしか、この実践は成立しない。目の前の子どもと向き合うことからしか教師の実践は出発しえない。それは当然のことだ。しかし、そうした現実的限定を、実践主義は不当に自己拡大して自分を主張する。目の前の現実に対して実行性を直接に持たないと、秩序の側から判断される議論を、その現実性・具体性のなさ、という点で封殺するのだ。
 だがしかし、<実践>というのは、いまある可能態の中でだけ構想できるものでは本当はないのだ。いまだ成らざる、どこにもない可能態を、現実にくくられざるをえない実践のなかで思考するなかでさぐってゆく思想的営為とつながっているときに、それは<実践>とよばれるのだ。疑いのない、素朴実践主義の、理論・思想への抑圧機能を許してはならない。いまある可能態としての秩序を、その不動とも思える必然性をとらえ切ることは、いまだ成らざる可能態の側からの認識がなければできない。そうして、その認識こそが秩序の必然性をゆるがせるのだ。理論的認識の力を忘れてはいけない。ボディブローとしての認識力を教師は創造しなければならない。教師が思想を自己形成できなかったのは、この素朴な実践主義の故なのだろう。
 さらに、この実践主義は教育にまつわる様々な神話の生産にかかわっている。教師の実践主義の回路は「より多くの教育がのぞましい」という支配イデオロギーとつながっている。教師は、ゆきとどいた教育を目指す。子どもに教育的行為が及べば及ぶほどこどもは良くなるという信仰を支えているのは、この教師の実践主義にある。反学校・反教育派の学者が、いくらこの支配イデオロギーを批判しても、教師にとどかないのは、この実践信仰があるからだろう。
実践主義は、子どものためになにを「する」かを問う。子どもを放ったらかしにしている、とは教師批判の殺し文句である。教育を善行と思わずには教師たりえない教師の善良性は、教育を思想的に追いつめる努力をサボタージュする心理的根源になっている。不登校は、この教師性の根幹に逆らう。
 <解放教育>も、こうした教育の神話に囲まれてきた。その神話の構造を、教師の日常行為にそくしてとり出してみなければならない。兵庫解放研の分裂のときに、福地幸造が、「子どもを守り切るのだ」と主張した者たちに向けた批判を思い出す。教師は自らの行為の生み出す神話を自覚化しなければならない。
教育の神話に対する疑いが教師の中に芽生えてこないのはなぜか?それは神話にもリアリティがあるからだ。神話の中でも人は生き死にできるからだ。神話の中にも深い人生がセットされうるからだ。ファッショ的生徒指導にさらされて卒業した生徒が、何年後かに学校を訪れる。「やあ~あの頃は先生に反発したけれど、今から考えてみれば、あの時の指導がなかったら、自分はダメになっていたろうなあ~」という神話のことばを語る。それを聞いて、教師は「やあいろいろ批判するやつがいるけれども、自分の指導の正しさを見ろ、生徒の声を聞け」と自らの教育を全面肯定する。神話を語ってくれる少数の生徒を含めて、どれほどの抑圧を生産してきたかということは、教師には見えない。神話は教育の両義性など押しつぶし、いっきょに実践主義の回路と結んで、教師のダイゴ味!をつくりだす。
教師の実践主義は教育神話の根源を支え、教師の発想を規定し限界づけ、総括を糞づまりにしてきた。教師は自己否定をはらんだ教育の両義性を徹底的に見つめる思想的強さに欠けていた。そうした教師のあり様を生産する条件を明らかにし、我々のまとってきた、この実践主義を超えていかなければならない。

3.「教育解放研究会」の結成へ向けて
 北摂解放研は解放教育を目指してきた。解放教育とは何か。それは既成の学校教育の部分として安定しうるものではない。秩序としての学校教育を解体させる「疑い」の棘を持っていたろう。学校・教育という制度への不断の問いかえしとしてあったはずだ。福地幸造は「<学校解体>という思想的営為」といっていた。学生運動のスローガンではない。学校現場の内側にいながら、こうしたラジカルな問題設定を持ちつづけていた。このことを我々は忘れていないか。
 いつのまにか、学校教育の部分として<解放教育>がしくまれてしまっている。そのことを理論的に明確にしつつ対応してきたろうか。理論的総括の可能性は北摂解放研に多くあっただろうと思う。しかし、上述のような実践主義に足をとられて、理論を語ることのウシロメタサの教師感覚の故に、十分に展開することができなかった、ということも真実だろう。この総括の不徹底性に、北摂解放研のつまずきの一因があった。
 現実がはるか理論の先を走っている。古色蒼然たる「教育学」その他の体制的理論の骸骨に感覚を縛られている教師の現状がある。我々は「教育」といわれる場で何をしているのか。我々を支配している教育イデオロギーの機能は何か。教師が子どもに語りかける、その身体、言語はいかなる磁場を構成するのか。今日の教育の自己肥大は、いかなる思想的起源、経済的・社会的条件によってもたらされたのか。等々の基本的問題の解明の中で「教育ファッショ」と対決できうるのだろう。<解放教育>を同化吸収解体した敵の姿はそのなかで見えてくるだろう。
 このような作業は、現代の教育の内部の岩に鎖づけられている我々が、自身の身体・意識・感覚・思想の自己検証の中で行わなければならない。そのための理論装置は、できあがった形ではどこにもありはしない。あちこちに散在してある武器をひろい集めて構築創造する作業が必要なのだ。あらゆる既成観念をカッコでくくり、現実に耳をそばだてて、新たな視線を共同で構築しなければならない。新たな実践の地平は、この日常的教育体制の批判的理論化の共同作業のなかで形成されるだろう。
 我々は<解放教育>ばかりでなく、戦後教育あるいは教育そのものを、北摂解放研の活動の豊かな遺産を武器にひろいつつ、今日の教育状況に対決する思想的営為をつづけている学者・思想家に学びながら、全面的に問い返す作業から再出発しなければならない。
 「解放教育」という看板はすでに現実によって無効にされてしまっている。だが解放教育は<教育>そのものを解体構築する射程を持っている。私はそれを確信している。我々は<教育>の批判理論の構築にむけて<解放教育>を吸収囲い込んだ<教育>の枠組みの解体・解放にむけて出発しなければならない。
福地幸造が、教師の世界を「思想的砂漠地帯」と一貫してなげいてきた、その福地の批判に、我々は返礼を返さなければならない。思想の砂漠地帯から抜け出すための、共同の作業が必要とされている。これこそが解放教育運動の嫡流としての北摂解放教育研究会の転生への正道であるだろう。

4.教育解放研究会の性格
 以上の観点をふまえて、「教育解放研究会」の性格をまとめてみると、だいたい以下のようになるだろうと思います。勿論、これは出発点での性格であって先のことまで規定しようというのではありません。
1) 教師による「教育」「学校」の批判的対象化作業を共同で行う場とする。
2) 現在の社会・教育の総体がファッショ的情況の中にあるとの認識に立ち、こうした抑圧的教育体制から、子供・教師を解放する道筋を探究する
3) 教師の日常的行為・意識を自覚的に対象化し、教師の囲われている実践・理論の枠組みを明確にし、現代の学校社会を超える理論と実践の構築を目ざす場とする。
4) 北摂解放研の活動の中で展開されてきた解放教育の豊かな遺産を継承し、解放教育が持ってきた近代学校への批判と実践を理論実践装置として組み上げる場とする。
5) 教師の教育実践を支えている教育思想との対決は、以上の課題にとって不可欠の作業である。よって、近代の教育諸思想、元だ日本の教育諸潮流およびそれらを支えている思想を、我々の感性・日常行為にひきつけて、批判検討する場とする必要がある。
6) そのためには、教育哲学、現代思想などの研究者との積極的交流をはかり、学ぶ場としなければならない。



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